「香林坊?」変わった名前の町だな。金沢市香林坊の由来とそこに架かっていた「香林坊橋」の風景を訪れる
金沢へ観光へ来たら必ず一度はこの名前を耳にするかと思います。
「こうりんぼう」と発音します。金沢を走るバスの多くはここを経由します。また、この香林坊は金沢の繁華街片町と隣り合わせており、金沢の繁華街の一つ。香林坊には石川県では知らない人がいないであろうデパート「大和」(ダイワと発音します)もこの香林坊にあります。
そして、なにより県外から来た人が驚く「KOURINBOU 109」渋谷の109さながらのルックスで109がこの金沢の香林坊に建っています。
渋谷109のサイトを開くとお分かりでしょうか。KOURINBOUの文字を見つけることが出来ます。そうです。その香林坊が今回取り上げる香林坊です。
右に見えるのが香林坊109。表に回ると本格的な渋谷さながらの109のビルが現れます。
香林坊の名前の由来
さて、この香林坊(こうりんぼう)という名前ですが、坊が付くくらいなので「お坊さんが由来なんだろ?」 結構容易に想像できます。
そうです。その通りです。香林というお坊さんの名前が由来です。 様々な説はありましたが、現在最も有力でほぼ確定しているのがこの香林坊家由来です。
ではどういう由来か。
越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、天正8年(1580年) 当地に移り町人となって薬種商を営む。比叡山の僧であった縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名も香林坊とする。
ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより処方した目薬が、藩祖前田利家の目の病を治し、香林坊は大いに名を上げる。この夢で見た地蔵尊を造りの店の小屋根に安置し商売が繁盛する。寛永の大火のとき、地蔵尊辺りで不思議と火が止まったため、香林坊の火除け地蔵とも呼ばれるようになる。
比叡山の僧であった香林坊が帰俗して、現香林坊の町人、向田家の跡取り婿養子「向田香林坊」となって、目薬の製造販売を行なう。以後、香林坊家として繁栄したというのが説のようです。
興味深いのはこのお地蔵さんの話しである。寛永の大火の時に地蔵尊が火除けになって火が止まったというのである。科学の進んだ現代からすると、風向きや、惣構のおかげだったのかもしれませんが、地蔵の力だったのかもしれません。
香林坊に建っている地蔵尊(写真)が、当時のもの、そのものかどうかはわかりませんが、香林坊の火除け地蔵として香林坊の交差点の非常に目立つ良い場所に地蔵尊が建っています。ぜひ訪れた時に見てみてください。
香林坊橋の風景を追って
香林坊橋という橋がこの香林坊の大きな交差点周辺に掛かっていました。現在(2014年10月)もこの香林坊の交差点の地下には用水が流れています。昭和30年代にはその香林坊橋は姿を残しています。
奥の方に橋がかかっているのがお分かりでしょうか。これが「香林坊橋」です。現在でいうところでは、ちょっと坂になっている香林坊109の入口辺りから、大通りをクロスする方向に橋がかかっていました。今はもう橋というより単なる道路になっています。地下には用水が流れ込んでいます。
Googleマップでお分かりになりますでしょうか?用水と用水が地下に潜っている部分が「旧香林坊橋」です。
この「香林坊橋」の由来は金沢市の説明によると
鞍月用水(西外惣構堀)に架かる橋で、市内旧石浦町と片町(現香林坊一、二丁目と片町一、二丁目)を結んでいる。1800年頃の道橋帳には、長さ六間(10m80cm)、幅三間一尺(5m70cm)となっており、大きな橋であった。反省の初めの頃、犀川は二つの川筋に別れ、大きい瀬に架かるものが犀川大橋、小さい瀬に架かるのを犀川小橋と呼んでいた。この小橋が香林坊橋であり、香林坊小橋または道安橋ともいわれていた。
この通りは北国街道にあたり、尾張町にある枯木橋とともに金沢城の外郭となるため、木戸を構え、橋の左右両側に橋番人を置き、往来を厳重に監視させていた。また、藩の制札場があり幕府や藩のきまりを書いた立て札がこの付近に立てられていた。
とのことです。ここで注目すべきは「藩の制札場があり幕府や藩のきまりを書いた立て札がこの付近に立てられていた」という部分です。この香林坊は今も昔も変わらず、人も往来も多く、沢山の人が目にするということから高札場(制札場)があったということなのでしょうか。
ということで、この香林坊橋の姿の歴史をさかのぼってみました。
延宝金沢図(1673年?1681年)の香林坊橋
いつも歴史の入り口としてまず延宝金沢図で確認しています。延宝年間(1673年?1681年)での金沢香林坊の香林坊橋はしっかりと確認できました。延宝金沢図に限らずなのですが、道は時代を超えても大きく変わることはない。この400年以上前の地図を見ても大きく道路は変わっていないから面白いものです。
この延宝金沢図、延宝年間ではこのあたりがどのような姿をしていたのかまではわからない。
橋の出入りを取り締まる「木戸」と「高札場(制札場)」
金沢の街はよく出来ていまして、犀川・浅野川に挟まれ敵の侵入を防ぎやすい作りになっています。その川の出入口には木戸を設け敵の侵入を防いでいました。香林坊橋にもこの木戸が設けられていました。
また、高札場(制令場)というのは前途したように「藩の制札場があり幕府や藩のきまりを書いた立て札」のことです。前田藩が出したおおくの決まりは御法度などはこの高札場(制札場)に貼りだされ、通知されていたということ。沢山の人が目にする場所、または、特別な場所だからこそこの高札場が設けられていたのでしょう。
過去の資料からこの香林坊の香林坊橋周辺にあった木戸・高札場の風景を追ってみた。
加賀農耕風俗図絵「金沢図屏風」1688年〜1735年
元禄・享保年間 (1688年〜1735年) に描かれたとされる加賀農耕風俗図絵「金沢図屏風」(桜井健太郎氏所蔵) での香林坊橋。こちらで確認できるのはアトリオ側(旧石浦町)から香林坊橋を渡ってしまった犀川大橋方面に木戸が設けられています。
加陽金府武士町細見図 1734年
加陽金府武士町細見図 享保19年(1734年)でも香林坊橋を確認することが出来ます。こちらは木戸がどこにあるのかしっかりとわかりません。もしかしたら石浦町と書かれた4つの点の部分が木戸でしょうか。
そして、ここで確認できるのは高札場(制札場)です。高札場の場所が確認できます。現在の香林坊の「走る」のオブジェクトがある部分
この部分にあったのではないだろうかと推測ができます。
金沢町絵図 文化8年(1811年) 金沢市立玉川図書館蔵
こちらの木戸の場所が「加賀農耕風俗図絵「金沢図屏風」1688年〜1735年」とちょっと異なっているのです。
稿本金沢市史 市街編 第1 – 年代不明(幕末あたり?)
続いて年代がどうしても確認ができなかったのですが「稿本金沢市史 市街編 第1 pp.131」にもこの香林坊橋の風景が残っていました。
こちらは手前(左下)がアトリオ側(旧石浦町)。右上が犀川大橋に続く竪町・木倉町方面と推測ができます。
年代が分からなかったりとするので参考程度にという感じでしょうか。
この絵と同じ雰囲気のものが「加賀藩年中行事図絵 下」にもありました。この「加賀藩年中行事図絵」は昭和に描かれたものなので年代的には幕末辺りかと推測ができます。(追記:2014年10月24日)
さいごに
いかがだったでしょうか。「金沢市「香林坊?」変わった名前の町だな。その由来とそこに掛かっていた「香林坊橋」の過去を訪れる」
その場所に過去に何があったかをちょっと文献を調べてみるだけでまた違った風景に見えてくるのではないでしょうか?
この香林坊という場所に香林坊というお坊さんが婿養子として来て目薬屋を、お地蔵さんの大火の伝説。そして、木戸や高札場の場所の推測。知が入ってくるだけでこの風景が少し違って見えてくるのではないでしょうか?
たった400年という歴史ですが、この場所に多くの人が生活し同じ金沢という街を生きた。そんな歴史を尋ねると金沢という町がより尊く美しく感じるのでした。温故知新とはまさに。
参考文献:
- 香林坊橋 延宝金沢図 1673年?1681年
- 加賀農耕風俗図絵「金沢図屏風」1688年〜1735年
- 加陽金府武士町細見図 1734年
- 金沢町絵図 文化8年(1811年) 金沢市立玉川図書館蔵
- 稿本金沢市史 市街編 第1
- 金沢古蹟志