【金沢駅の歴史】金沢駅ができるまでを超絶掘り下げ大解説!明治からの金沢駅を完全解説できる金沢駅博士を生むのだ!その1

【金沢駅の歴史】金沢駅ができるまでを超絶掘り下げ大解説!明治からの金沢駅を完全解説できる金沢駅博士を生むのだ!その1

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みなさんこんにちは。 

令和のオリンピックまで一年をきりカウントダウンも始まっています。思い出せば2015年の北陸新幹線のときも同じように一年前くらいからカウントダウンが始まり駅前を通るたびにワクワクしたのを思い出します。

金沢駅前に飾られていた北陸新幹線カウントダウンパネル

そのオリンピックの年に「新型コロナ・ウイルス COVID-19」が猛威をふるいインバウンドを始め国内の観光すら「大丈夫?」という声が聞こえてきます。こういうときだからこそお面白いことするのだと意気込んで記事を書き始めたらマニアックなものになってしまいました。。今回は金沢駅に焦点を絞ります。

金沢駅

北陸新幹線に乗って金沢へやってくる観光客は必ず最初に金沢駅に降り立つのだろうと思います。明治31年4月1日(1898) に開場した金沢駅です。

開場当時の写真(白黒写真のほう)は結構至るところに掲載されておりこの写真をご存じの方も多くいらっしゃると思います。もちろん現在の「もてなしドーム」の金沢駅はもはや説明の必要ないでしょう。

1898年の金沢駅開場から117年後(2015年)に金沢駅には北陸新幹線が開通し多くの観光客が世界中から来ることになろうとはこのことは誰も思ってもいなかったでしょう。

ここで金沢駅がなぜできたのか。

そんなの知らんわ。当たり前や。駅は駅!と言いたいところでしょうが、ビューティーホクリク編集長の

知識欲が溢れ出てしまったので仕方がありません!

金沢駅ができるまでの裏話などを交えてどこよりも詳し昔の金沢駅を訪ねていこうというのが今回の記事です。

金沢駅が作られた背景

金沢駅がなぜ作られたのか。その理由を探るには2つのキーワードがあります。

1.人口減少・経済停滞の金沢
2.富国強兵の明治時代

の2つに絞ることができます。

明治20年代後半にかけて金沢の人口は幕末の12万人から8万人にまで減っており経済発展が求められていたということもありました。武家で育った金沢の町の士族の多くは東京などへ出ていってしまったことも大きく影響した。

日本新政府が打ち出した富国強兵の波に乗り、人口の増加に転じたいと考えていたのが実際です。

歴史を紐解いていくと明治の富国強兵の時代に日清戦争の賠償金で整備されたのが北陸線・金沢駅です。冷静に考えればそうなのですが結構意外に思われるかもしれません。

日清戦争のあとの戦争の賠償金を使って金沢のお城の中に第9師団が設置されるのです。やっぱり意外ではないですか?

富国強兵に必要であった軍隊の輸送などの際に鉄道網が必要不可欠だったのです。そのための北陸本線であり金沢駅の設置だったのです。

1.人口減少・経済停滞に歯止め (幕末12万人が明治8万人強に激減)
2.富国強兵の明治時代 (日清戦争の賠償金で北陸線の敷設、第9師団の設置)

軍事的拠点のために北陸線は必要不可欠だった
犀川鉄橋を走る汽車 明治30年 (北國新聞 愛蔵版ふるさと写真館)
富国強兵で設けられた金沢の軍隊である第九師団司令部 大正13 (20世紀の肖像より)

金沢駅の場所が決まるまで

金沢駅はどのようにして場所が決定したのでしょうか。現在の木ノ新保に金沢駅ができると決定したのは明治29年5月6日。この場所の決定の際にはいろいろと数々の問題がありました。

金沢駅の場所の論議

まず、この金沢駅ができる前の金沢の地図です。地図は北陸線が計画される前1876年 明治9年9月21日の金沢の地図です。このどこに北陸線の駅を作るかということが問題になりました。

加賀金沢細見図 金沢市立玉川図書館 1876年 明治9年9月21日

金沢駅開場の3年前、明治28年で検討された金沢駅設置の条件は

・人家を極力避けるということ
・用地買収が容易であるということ
・金石街道より南の犀川寄りの位置では勾配があって駅を設置できない
・犀川堤防と浅野川堤防では14尺の高度差があり犀川から金石街道までにそのうち11尺の高度が有るため駅には適さない

地元人でも多少理解が難しい箇所がありますが、上記の条件に合う金沢駅の設置候補地は3つに絞られた。

1.宗叔町 (そくちょうまち 今の玉川町 芳斉1・2丁目)
2.三社付近
3.広岡付近 (現在の駅は木の新保で広岡とは違う)

下記はこの3箇所を地図に表示したものだ。

金沢駅の設置候補地は3つに絞られた

広岡に決定しははずが

この3つの箇所で圧倒的に優位だったのが広岡周辺 (金沢駅西口のパークビルあたり) そのままで決定するというところまで進んだのですが、金沢でよくありがち、いや、地方ではどこでもある話なのだろうけど急に

「それで本当に良いのかい?」
「おいおいこっちのほうが良いじゃないか?」

という無慈悲な横ヤリが入ります。無慈悲な横ヤリは下記の通り。

1.宗叔町 = 市の中心に近いが人家が密集している
2.三社付近 = 土地に高低差があり駅に不適である
3.広岡付近 = 土地買収が簡単だが市街地から遠すぎる 

宗叔町、三社付近は無いとして広岡で良いって言ったやないか。広岡でいいやんけ。当時は多少の屋敷しか無かったので開発も土地買収も容易やんけ。

しかし、ここで急に登場してきたのが現在の金沢駅の場所となっている

木ノ新保町(きのしんぼ)!!!

なのです。まさに

ウルトラC案!!!

が突如登場しすべてをかっさらっていったのです。

昭和ではなく大正でもなく、明治時代ですので、裏で買収とか談合とか普通にあったんだろうと思います(あったかどうかは知りませんがあったと思います!)

広岡→木ノ新保変更の理由

この突然の変更は裏工作があった出来レースだったのではないか。多分そうだったんでしょう笑 最終的になぜ広岡ではいけなかったのか。その理由は

広岡は木ノ新保より15センチ低く、水没の恐れがある!

という説明であった。北陸新幹線水没の一件も最近あったので、15センチと言えど見逃せない、とは確かに思うが、明治時代という時代背景もあってか、

はいはい。談合あったんですね。仕方ないですね。はいはい。明治時代だから仕方ないっすね。って思ってしまう心が汚れている編集長ですいません。

前田家家臣の登場 水戸黄門か

本多政以(Wikipedia)

お察しのようにこのような談合や急な変更が続き、様々なところで紛糾することとなり、このままでは決まらないと、元前田家家臣が登場します。

本多政以(まさがね)が仲介に入る形木ノ新保に決定することになったようだ。明治時代すげぇというか江戸時代をキレイに引きずっている。

めでたしめでたし。はい。決定。棒読み

金沢駅開場が明治31年だから、開場のわずか3年前の明治29年5月6日 金沢駅は木ノ新保六番丁(当時の白鬚神社辺り)を中心とする木ノ新保5番丁・七番丁の3万6000坪に「三等停車場」が建設すると正式に決定。

このときに地元の歴史好きなどでもよく話に出てくるのが高田某(なにがし)の話だ。この高田某(なにがし)が木ノ新保の土地を転売して大儲けしたという話だ。

この話はいろいろなところで聞くので資料など結構探してみたが確かな情報は見つからなかった。しかし、情報源まではわからなかったが細かい金額まで多少出ていたのが下記の内容

「駅前に住んでいた高田氏は蓮沼と藪をあわせて約5万坪を坪8銭で買い占め、それを20銭で鉄道省へ売りつける」

明治時代のことなので「でしょうね」としか思わないというかなんというか。もっと激しい買い占めやえげつない情報線、人の命が飛ぶくらいの出来事があったように思うがその真偽はわからない。 

この明治時代すっげーって思うような事が多々起きるのでより知識欲が湧いてくる編集長であった。

金沢駅を市内と結びつける大論争

突然の変更で決定した木ノ新保の金沢駅だが、どこに決定しても問題は抱えてきた。それは

1.駅から町中が遠い
2.駅と市内の道の向きが違う

だから最初に駅の候補地3箇所選んだんでしょう。急に場所が変更になったんでしょ。もっと真剣に考えれば良いんじゃなかったのか?とか令和でも度々起こるような話ですが、明治時代も同じような感じです。

結局のところ一番の問題は犀川・浅野川から市内に入ってくる線路は木ノ新保で停車するのであるが市内の道路や街の作りはその線路に対して平行ではないというのが大きな問題なのです。もちろん木ノ新保とお城の中心との距離の問題もあります。

地元の人。想像してみてください。金沢駅周辺の細かい道、テーブルNANAとかパチンコホームランの向かい側の細い路地とか結構変な作りの狭い道路が多いじゃないですか。あの辺りは線路の方向と平行にはなっていないことがわかると思います。線路と街の作りは平行ではなかった。

具体的な道路をどのように作るかという論議は明治30年5月に始まる。明治30年8月までに新設道路の建設を県の補助を受けながら金沢市が建設スタートと言うことまでは決まっていた。だが、どう建設するかは未定。

いいぞいいぞ!こういうハラハラするの好き。

駅と市内が連結して初めて駅というものだ。ここから金沢市会と石川県で道路をどのように作るかという男たちの戦いが始まる。

金沢駅から武蔵が辻への直線道路の夢

金沢駅→武蔵ヶ辻の直線道路を作ろう

金沢市会は次のように金沢駅から市内に直線の道路をつなごうと考えた。この直線道路は現在の金沢駅東口からまっすぐ伸びる道路と同じだ。明治の金沢の人たちはこの道路を作って金沢駅と市内を結ぼうと考えた。

金沢駅→武蔵ヶ辻の直線道路を作りたい。そう考えたのだ。

明治30年12月14日 金沢市会は金沢駅から武蔵が辻までの直線道路の提案を出すのであるが

金がかかりすぎると石川県から却下される!

それもそのはずで

建設総額6万円が必要!
半額3万円でいいので!たのん!
石川県さん補助ください!

と3万円の補助を石川県に申請したのであるが、

この建設総額6万円
というのは
当時の金沢市の費用
ほぼ全額

長谷川隼也元市長

石川県はこう言ったかもしれない。「金沢は特別っすけどいくらなんでもそれは無理っすわ」という声が聞こえてくる。

金沢駅から武蔵が辻までの直線案は却下となるのだがこのとき相当な議会の紛糾があったのだろうと思う。

後で調べて分かったのだが「明治30年12月14日」にこの無謀な3万円の要望を県に出すのであるが、そのわずか12日前(1897年(明治30年)12月2日)に当時の金沢市長であった長谷川隼也市長が退任していた。相当この道路の件で紛糾したのだろう。(その他の多くの理由もありますが)

金沢駅→武蔵ヶ辻の夢の道路

北國新聞社 愛蔵版ふるさと写真館
平成8年 金沢駅通り線開通を報じる記事

無謀な予算で金沢市が提出した金沢駅→武蔵ヶ辻の道路を建設したいという案であるが、時を超え100年も先にようやく形になるのだ。

ご存知のように現在は金沢駅から武蔵が辻までの直線道路でつながっていますが、あの道路は平成8年(1996年)にようやく開通する。

要するにこの明治30年12月14日(1897年)に申請した提案が却下され、その後ほぼ100年の時を経て1996年に完成した道路なのだ。

100年道路といってもよい道路なのだ。

この難題となる道路の建設はさておき、明治31年度中に金沢市は金沢駅の広見のみを完成させたところで金沢駅開場を迎えるのだ。道路は未完成っす。

明治31年4月1日
金沢停車場開場(金沢駅)

駅についても色々と語りたいことがあるのであるがそれは次回のその2でお話できればいいなと思います。この駅前の広見は軍事用だったりとか色々と面白いのです。

金沢駅開場後に整備される道路

金沢駅→リファーレ→白銀→玉川→下堤町の道路を検討

金沢駅→武蔵までの直進がダメなら、金沢駅から現在のリファーレ前の交差点を右に曲がり、白銀(しろがね)の交差点をまっすぐに抜け、玉川町の交差点を左折し下堤町へ抜けるという道路の建設計画を考えた。

金沢駅→リファーレ→白銀までの建設は問題なく進んだのであるが、白銀から玉川~下堤までに問題が起こった。

石川県、曰く
「白銀→玉川→下堤までは金は出さん」

石川県はこのように回答した。この先、石川県は白銀から武蔵が辻まで(安江町の金石街道)を県道にする予定で、県が工事をするので金沢市には用がない。工事の補助できないと却下されるのだ。

地元トークになってしまうが要するに白銀から玉川行くときって、金石街道を横断するじゃないですか。当時、金石街道(安江町あたり)は石川県の道路にする予定だったので、白銀→玉川を通らずに白銀→金石街道でいいじゃんか。金沢市が道路作る必要ないっす。ということでした。ややこしいですがわかりますでしょうか。

すでに金沢駅→白銀まで道路ができているので、金石街道の一部(安江町あたり)を石川県の所有として道路を連結すれば金沢駅から武蔵までつながる。金沢市の案であった金沢駅→リファーレ→白銀→玉川→下堤の道路建設はまたもや暗礁に乗り上げるのだ。

石川県が金石街道(安江町あたり)を整備するまで待て。ということだったのです。

不吉な火災が発生

金沢市と石川県が道路を作らせない、補助を出さない。道路作れない。ちょっと待っとけ。石川県が仕上げをするから。と喧嘩していたところに不吉なことが起こるのです。それは

安江町で大火災が発生!!

現代の火事とは違い当時の火事は火事ひとつで街すべてを焼いてしまうくらいの出来事だったので一大事でした。このときの火災は安江町のほぼ全域を焼いてしまう大火事でした。

この火事がなぜ不吉かというと金沢市と石川県が道路を作る作らないの問題が裏にあるように思えるからなのです。

北國新聞 明治32年4月12日
前日の安江の大火事を報じる

というのは金沢市の提案が石川県に却下されたわずか10日後、明治32年4月11日にこの安江町一体を焼く火災が起きるのだ。まさにその場所一帯での大火事だったのだ。当時の家事を報じる北國新聞にも目を通してみたが結構燃えていた。この火事で一体が燃えた場所は石川県が県道とすると金沢市会と問題になった安江町の金石街道の一角。

この安江町の大火事、金石街道を含むがあったのでということで火事のあった翌日、明治32年4月12日 あっけなく白銀から安江町のルートで道路を拡張を決定する(白銀~安江町~武蔵の金石街道というルートで工事を行うこととなる)

大火事になったので安江町周辺の転居費用もいらず建設費が安くなる

という理由であっけなく白銀~安江町~武蔵ヶ辻のルートで火事の翌年、明治33年6月金沢駅~白銀~安江町~武蔵の道路が開通するのだ。

金沢駅〜武蔵ヶ辻の道路が完成

あっけなく完成するのだが、なんだか普通に喜べないのが怖いところだ。金沢市と石川県が揉めている場所、この場所が広くなればいいのにな〜、ここが燃えればいいのにな〜と思っている人がいてもおかしくない場所で火事が起こったということだ。しかも、石川県に却下されたわずか10日後に問題の場所が燃えたのだ。

金沢駅→武蔵ヶ辻の道路完成後

金沢駅の建設場所も思い出せば何やら不穏な話があったが、金沢市は今までの反省を踏まえ「市区改正調査委員会」を設置すると決定する。この委員会の設置で委員会で検討した後に市会で承認という流れを作るということにした。とはいってもどんな案件も石川県が認めなければどうにもならないのだろうが。

やはり付きまとうのが安江町の火災は放火ではなかったのだろうかという件。100年以上も前の話なのでそれが放火であったかどうかなど知る由もないが、当時の状況では放火だっただろうと思わざるを得ないのだ。都合の良いタイミングで火事が起きすぎ。明治・大正の金沢の都市開発を見ていくと他にもこういう案件があるのだ。そういう時代だったのだろうと思う。

また、道路の幅は10間(18.18m)で計画されていたのだが、最終的には5.5間(10m)の道路となってしまった。おそらく立ち退き費用がかかり狭い道路の建設になってしまったと推測している。

その後に作られる道路は5.5間の幅に合わせて建設されているはずだ。大正期に入りその狭い5.5間の道路に路面電車を走らせればそれはより狭い道路に、狭い市内に感じたはず。この金沢市内の道路の狭さは(場所によってだが)この明治の金沢駅から市内にどのように道路を作るか問題に由来していると思われる。

開場後の金沢停車場・金沢駅

さて、明治・大正の金沢駅はどのような様子だったのかをすこしご紹介していきたい。 明治期になると写真も登場し様々な写真を交え説明できるから明治からの話は面白い。今回はかなりヘビーだったので次回は金沢駅の昔の姿をお届けしようと思います。先立って少しだけ金沢駅の写真集をお見せいたします。

その2はこちらから。

さいごに

いかがだったでしょうか。「【金沢駅の歴史】金沢駅ができるまでを大解説!金沢市民なら知ってて当たり前!明治の金沢駅を訪ねよう!その1」金沢をよりマニアックに感じていただけたでしょうか?

100年前の夢を実現した道路といえる

北陸新幹線開業以降、特別金沢駅は金沢の玄関口と言われるようになりました。その金沢駅の歴史を知ることでより思いの深い場所に変わったように思います。

金沢駅が日清戦争の賠償金で作られたという背景や富国強兵の日本のための一部だったということなどまだまだ知らないことがたくさんあるなと思った。特に毎日のように利用している道路は100年来の夢の道路だったということをこの令和の時代に知る事ができたことが大きな収穫だ。

そして正直なところ、この令和の時代で思ったのは「明治怖い」でした。明治時代の価値観というのはそう遠くない価値観のように感じています。江戸時代になるとあまりに価値観が違いすぎて理解すらできないように思うのですが、明治時代はギリギリ理解できるように思ったのです。

だからこそ、人の感覚も分かり怖さも感じたのではないかと思ったりしました。人の熱は法よりも熱量が重んじられる時代だったのではないか。金沢駅の歴史をちょっと調べるだけでそのように感じた。

歴史を知り己を知る。歴史を知り今を知る。そして未来を作る。少しでもそのお役に立てれば本望です。

また、次回は時代を当てる「金沢駅のマニアッククイズ」も行いますのでお楽しみに。

参考文献・参考

  • 「20世紀の肖像」 能登印刷出版部
  • 「写真集 昭和の金沢」 アーカイブス出版編集部
  • 「ふるさと金沢」郷土出版社
  • 「ふるさとの思い出写真集」金沢 金沢編集委員会
  • 「石川百年―写真集」北陸中日新聞
  • 「写真と地図でみる金沢のいまむかし」国書刊行会
  • 「加賀金沢細見図」金沢市立玉川図書館 1876年 明治9年9月21日
  • 「懐かしの金沢の市電展」金沢市立泉野図書館
  • 石川県立歴史博物館 常設展示
  • 「金沢百年物語」北陸中日新聞 高室 信一 (著)
  • 「長田のあゆみ」長田のあゆみ編集委員会
  • 「金沢町物語」能登印刷出版部 高室 信一 (著)
  • 「古地図で楽しむ金沢」風媒社 本康 宏史 (著)
  • 「金沢町人の世界」国書刊行会 田中 喜男 (著)
  • 明治期の金沢の街路計画-駅前放射状道路と師団連結道路 土屋敦夫
  • 大正期の金沢の街路建設-市区改正計画と市街電鉄の敷設 土屋敦夫
  • 北國新聞 明治25年〜明治40年 北國新聞社
  • 「石川の戦後50年」北國新聞社
  • 「愛蔵版ふるさと写真館」北國新聞社
  • 「北國新聞に見るふるさと110年 上・下」北國新聞社
  • ※ 本マガジンでは古写真は「1958年よりも前の時期に撮影された写真については、著作者がいつ死亡したかどうかに関わらず著作権が消滅している」という解釈を採用しています。分かる限り古写真の所有者を明記しています。詳細はこちらを参照ください。

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