【金沢駅の歴史】金沢駅ができるまでを超絶掘り下げ大解説!明治からの金沢駅を完全解説できる金沢駅博士を生むのだ!その2
みなさんこんにちは。
そろそろ北陸新幹線開業5周年を迎えるのですが、2019年度で沈んだ北陸新幹線とその被害に合われた方への配慮があったり、最近流行りの「新型コロナ・ウイルス COVID-19」が観光に相当のダメージを与えていることもあり北陸新幹線5周年を壮大に祝わないという雰囲気になっていてちょっと残念な気がしています。こういうときこそ明るい話題が大切だと思うのです。
北陸新幹線5周年の節目ということでよ〜し金沢駅の歴史のことをと思って書き始めたら長くなってしまい今回はVOL2の記事となっています。というわけでVOL2のこの記事もご覧ください。
前回の記事
前回の記事はこちら。ちょっと文章の多い「こ難しい記事」でした。
今回は写真中心で金沢駅の姿を、変遷を追っていきます。
明治〜昭和初期の金沢駅の姿
明治期の金沢駅の写真は結構数が少なくその様子を伺うには写真が足りないのだが様々な情報があるのでご紹介していく。
明治31年金沢駅開場当時
明治31年の金沢駅開場のときの駅員の数は59人。一日の乗降者は平均して2160人。この数を少ないという方もいるのですが、当時人口が8万強の金沢としてはまぁまぁの数なのではないかと思ったりします。
富国強兵で軍事的な役割を求められていた金沢駅でもあったので駅前の広見は軍事用として作ることを求められた。前回の記事でも解説したように明治31年の開場の際にはこの広見も同時に完成する。こちらの写真は現在の金沢駅前(東口・兼六園口)の方面です。
石川県立博物館に展示してあった当時の金沢駅のモデルにもその広見と駅のモデル、そして駅の間取りも展示されていたのでここで紹介しておく。先に紹介した駅の写真は白黒写真で駅の色がわからなかったが駅は薄い緑色だったようだ。屋根の煙突のような部分は赤色。かわいい明治の駅だったのだ。
なんで正面から撮らんかってんて!!!って今更後悔しています。今度撮ってきます。
駅舎の内部のことも細かく分かる。待合室は1〜2,3等車と2つに分けられている。現代の飛行機のラウンジのようなものでしょうか。きっとスターアライアンスメンバーのポイントたくさん持ってると入れるやつのような感覚です。
明治31年の金沢駅を利用する列車の数も旅客列車は福井方面4本、混合が一本、福井方面からの下り4本、その他貨物列車が上下各定期、不定期が一本と少なかったので一日2,000人の利用は多いのかもしれない。2017年の金沢駅ではJR西日本では22,895人、IRいしかわで10,518人なので足して3万3千。人口は45万で観光客も相当増えているので一日2000人の利用は当時としてまぁまぁの数だったのでしょう。
駅弁の大友楼
ちょっと小話になってしまうが、明治の金沢駅設置とともに歴史を歩んでいるのが実は駅弁の大友楼であることを忘れてはいけません。駅周辺の電灯などはなくすべてが石油ランプ。そんな中で駅弁も販売されていました。
今も金沢駅では大友楼のお弁当が売られているからご存じの方も多いだろう。 明治31年 大友楼が最初の駅弁を販売したのは七代目佐俊氏だった。
明治31年の金沢駅開業の駅弁の値段は20銭。電車で弁当食う文化がなかったので苦戦していただろうと思う。大正期になっても弁当は1日20~30売れれば良い方で残った弁当は無償で警士(鉄道案内係)に配っていたという話もある。参入してくる富山の駅弁業者も数多く倒産し大友楼も相当悩んだという。
しかし、大友楼が続けた理由は戦争中の厳しい統制の中でも弁当の販売だけは許可されたからという話を聞いた。日露、太平洋戦争を乗り越え、北陸新幹線の中でもお供楼の弁当を食べることができるというのは時代を乗り越えてきた大友楼の努力の成果だろう。
明治38年の金沢駅
上記の写真は明治38年の金沢駅の写真。この写真は金沢駅など多くの場所で展示されていたので金沢市民も少なからずこの写真に覚えはあるかもしれない。
明治31年の開場当時の写真と比較すると駅前左右に建物が増えていることが伺える。
金沢駅と市内の連結が大切だった話を前の記事でしたのだが、金沢駅開場時には人力車のタクシーも営業を始めたのだ。金沢のタクシーの始まりともいっていいのが塚本岩松が金沢駅に人力車をおいたのがタクシーの始まりということになるだろう。
最初私も気づかなかったのだが、よく見ると明治38年の写真に実は人力車が写っている。
調べていくと開場時の人力車の数は50両の俥(くるま 人力車) だった。この俥は明治36年 は100両に増えているので相当の需要があったということだろう。
この人力車(俥 くるま)の乗り心地は超最悪だったらしく、金輪といわれる金属でできた車輪がとにかくガタガタしたのだという。
この金輪が劇的に進化したのが明治42年。金輪がゴム輪に変わったのだ。現在から見たら当たり前なのだが乗り心地が良くなったら使ってもいいかなとは思う。。
大正前期の金沢駅
そして大正時代に入るのであるが大正時代の金沢駅の写真が非常に少ない。どうしてだろうか非常に気になっているところです。戦争が影響しているのか。
明治期から驚くほど佇まいが変わっていない。
この大正期には金沢の鉄道で大きな出来事がありました。それは皆さんも御存知の金沢の市電が開業します。金沢市電の開業は市電も走り始めた。
この市電の話をするとそれだけで2回分の記事どころで済まない内容になるのでここでは控えておくが、ビューティーホクリクで注目したいのは大正の市電の工事の費用負担は金沢電気軌道と石川県と金沢市の3者での費用負担として開業したということ。そのときに道路は8間(約14.55メートル)に拡張されたということだ。
この大正7年の香林坊での市電の工事の様子を見ると本当に道が狭い。道路と線路を兼用とはいえほとんどが市電の線路が埋まった道路になっている。
もともと明治の建設予定では市内の幹線道路を10間で作る予定であったが予算の都合で5.5間で金沢駅は開場、大正期に入って市電の工事で8間の広さになるのだ。こんなつまらないことですが笑 前回の記事でその背景などをいたので興味のある方は参照いただきたい。
市電は大正8年に(1919年)2月に金沢駅前から兼六園下までの区間のみで開業したのが始まり。なので上記の写真は開業間もない大正8年2月以降のものということになる。
駅の雰囲気と煙突。形はほぼ大正元年と同じだ。違いは駅前の広見に木が増えている(おそらく増えたのでは)。大正8年位まではほぼ明治期の駅舎のまま特別手が加わっていないように思われる。
大正中期〜後期の金沢駅
大正8年(1919年)2月に市電は金沢駅〜兼六園下の区間だけで開通、その後、大正11年(1922年)には犀川・浅野川を渡り市電の営業距離が延長する。それらに合わせて金沢駅の佇まいも変化したのだろうと思われる。
下記の写真が大正13年の写真とされているものだ。市電もバリバリ走っていることの写真になる。
この写真で金沢駅の変化があったのは
- 駅舎の表にヒサシのようなものが設置
- 屋根の飾りの形状に変化
- ガス燈が新しく設置されている
だから何なのだ!と思うかもしれませんが笑笑笑笑 市電が走り始めて利用人数も増えたり用途が少しずつ変わったということなのかもしれません。このへんはもう少し調査の必要がありそうです。
この市電で影響をモロに受けたのが人力車です。
明治期から市電の開通まで絶好調だった人力車が市電に押されてくる。人力車のピークは大正3年に130両を最大に大正9年には80両に減少、大正15年には55両。そして昭和2年には45両となり本当の車、自動車の登場もあり人力車はとうとう姿を消していったのだ。
市電のみならず少しずつ時代は自動車の台頭の時代になるのだ。ちなみにトヨタ初の量産乗用車である「トヨダAA」は昭和11年(1936年)4月の登場。ちょっとだけ気に留めておいてほしい。
昭和の金沢駅
上記は昭和4年以降の金沢駅とされる写真だ。駅前に見られる自動車は軍用だろうか?この昭和4年にはトヨダのAA型などはまだ市場には出ておらず、日産の前身である「ダットサン商会」の「ダットサン11型」やフォード社の「T型フォード」などは市場に出ていたようだ。この駅前にある自動車もよく見ると「ダットサン11型」っぽい気もする。車の断定などはここでは割愛します。すません。
次に昭和に入ってから現れる写真右の大きな照明灯。これは大礼祝賀記念事業として昭和4年に設置されたものだからだ。最近は令和の即位の礼があったところであるが昭和の即位の礼だ。
この大礼祝賀は昭和3年11月10日に京都で昭和天皇の即位礼が挙行されたことに関連し、翌日11日に金沢で開催された記念事業だった。この大礼祝賀を記念し昭和4年に照明灯が設置された。照明灯は高さ15メートルもあり金沢駅を照らした。この昭和の即位の際の映像がYouTubeにあったのでこちらに合わせて紹介しておきたい。
また、大正元年〜昭和3年までの間に金沢駅の入り口に時計が設置されていることにも注目したい。金沢駅の時計は一体いつ設置されたかという答えは見つけることができなかった。
金沢駅の時計設置時期のヒントとなるのは大正9年(1920年) 5月16日から7月4日まで東京教育博物館にて「時の展覧会」が開催された。その際に6月10日を時の記念日として設定している。
この時の展覧会をきっかけに国内の多くの場所に時計が設置されたのではないかと予想できる。ということは大正9年以降に設置され始めた?のではないかという予想ができる。時計の設置の予測は
大正9年(時の記念日)〜昭和3年(写真で確認ができたため)
確証がまったくないので金沢駅にいつ時計が設置されたかの謎に迫りたい。
この写真は金沢のいまむかしという写真集には昭和7年頃と明記されている
こちらの昭和8年の写真は金沢駅の展示会などでもよく目にする写真で金沢市民ならどこかで目にしたことがあるのではないだろうか。昭和4年と昭和8年の違いは駅舎が多少拡張されているところくらいだろう。
あと注目すべきは駅前に沢山あった人力車の姿は一切なくすべて車になっている。時代の流れとは恐ろしいものだ。そして路線バスも確認できる。この路線バスは昭和7年(1932年)に金沢を中心に開催された「産業と観光の博覧会」が契機となり市電と合わせて市民の足となった。産業と観光の博覧会は別の機会に大きく紹介したい。
この明治に建てられた平屋の駅舎のスタイルはなんと昭和29年まで変わらなかった。明治31年に作られた平屋の姿を残したままだった。
金沢の戦後復興の象徴とも言える金沢駅ビル
終戦を迎え9年後の昭和29年になると金沢駅は急激に近代化を果たし金沢駅ビルとなってしまう。
この駅ビルの姿はもういまだに覚えているという方も多々いらっしゃるのではないかと思います。私も幼い頃はこの金沢駅のビルをよく利用していました。
この昭和のビルの話がすごく長くなってしまうので次に持ち越し!
この昭和の駅ビルと現在の駅ビルとの比較、そして明治期に金沢駅が設置された際に江戸から伝わっていた屋敷があったのかなども次の回に更に持ち越しにしようと思います。
明治〜昭和の金沢駅の変遷のまとめ
というわけでここまでが予習です。
昭和29年になると駅ビルになるのですぐ昭和のビルであるとすぐに分かるのですが、明治〜昭和29年まで現存していた昔の金沢駅の細部に注目してほしい。
昭和7年頃 写真と地図でみる金沢のいまむかし
から小西裕太が作図したもの
このポイントだけ押さえておけばビルになる前の金沢駅の姿がだいたい何時代のものか分かるのです。
恒例のマニアック問題
それではここまでは予習ということにしまして、金沢マニアックマガジン恒例(多分初めて)のマニアッククイズを出します。
第1問
下記の写真は何時代の写真でしょうか?
正解は
昭和13年の金沢駅の写真です!!!
屋根の形状、若干出っ張りのある建物の形状の2つがあるということは大正8年以降の写真ということになるのですが、昭和ということまではわかりません!!
ここで重要になるのが
トヨダAA型の自動車
そんな説明一切していないし!と思ったあなた。この際覚えておきましょう。トヨダが昭和11年に発売したのがこの後姿であるトヨダAA型の自動車です。この写真は昭和12年で間違いはないでしょう。この時代には駅前には時計と照明塔も建っているはずです。少しマニアックになってきたでしょうか?
第2問
下記の写真は何時代の写真でしょうか?
正解は
明治時代〜大正13年以前の金沢駅の写真です!!!
もう簡単すぎて説明など必要はないはずです(駅の屋根に注目)。おめでとうございます!!!残念ながらこれであなたも金沢マニアックに一歩近づきました!!ビューティーホクリクでは金沢検定には絶対に出ない本物のマニアックを目指しています。
さいごに
いかがだったでしょうか。「【金沢駅の歴史】金沢駅ができるまでを超絶掘り下げ大解説!明治からの金沢駅を完全解説できる金沢駅博士を生むのだ!その2」金沢をよりマニアックに感じていただけたでしょうか?
結構久しぶりに大作を作ったので結構時間も資料も必要でこんなに大変だったっけ?と自分の過去の記事を見ながら自分の仕事を褒めてあげていました。
今回は金沢駅ができるまでと金沢駅の姿がどのように変化したかを明治31年から昭和の29年までを追うということを行ってみました。しかも「金沢駅の姿のみを追う」とちょっとマニアックな感じで楽しかったです。
かなりの調査の量にもなったので金沢駅の土地がどのようにつかわれていったのか。かつての金沢駅周辺には何があったのかなどを詳しく紹介して行ければなと思っています。北陸線が計画され金沢駅が木ノ新保に決定したときは金沢駅の周辺には屋敷と藪がありましたが、それ以外にも神社仏閣も多く存在しており、それらも取り壊されたりもしました。そういうコアな金沢の話も書いていこうと思います。
自分の住む街を深く知るということは自分の街を大切にするということ。これには様々な側面があります。その土地を大切にするとそこにいる人も大切にします。「知るということは生きること」そのものかもしれません。この金沢のことを掘り下げていくということは金沢に生きるという事と同じだと肝に銘じより深く面白いコンテンツを作っていこうと思います。今後ともどうぞお付き合いいただけると嬉しいです。
参考文献・参考
- 「20世紀の肖像」 能登印刷出版部
- 「写真集 昭和の金沢」 アーカイブス出版編集部
- 「ふるさと金沢」郷土出版社
- 「ふるさとの思い出写真集」金沢 金沢編集委員会
- 「石川百年―写真集」北陸中日新聞
- 「写真と地図でみる金沢のいまむかし」国書刊行会
- 「加賀金沢細見図」金沢市立玉川図書館 1876年 明治9年9月21日
- 「懐かしの金沢の市電展」金沢市立泉野図書館
- 石川県立歴史博物館 常設展示
- 「金沢百年物語」北陸中日新聞 高室 信一 (著)
- 「長田のあゆみ」長田のあゆみ編集委員会
- 「金沢町物語」能登印刷出版部 高室 信一 (著)
- 「古地図で楽しむ金沢」風媒社 本康 宏史 (著)
- 「金沢町人の世界」国書刊行会 田中 喜男 (著)
- 明治期の金沢の街路計画-駅前放射状道路と師団連結道路 土屋敦夫
- 大正期の金沢の街路建設-市区改正計画と市街電鉄の敷設 土屋敦夫
- 北國新聞 明治25年〜明治40年 北國新聞社
- 「石川の戦後50年」北國新聞社
- 「愛蔵版ふるさと写真館」北國新聞社
- 「北國新聞に見るふるさと110年 上・下」北國新聞社
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