【保存版】兼六園マスターシリーズ 〜VOL1基礎講座編〜 兼六園の見方が変わる!どこよりもわかりやすい兼六園の歴史!
みなさんこんにちは。
北陸新幹線で金沢へお越しになった皆さんは金沢へ行きたら一度は兼六園へ足を運ぶのではないでしょうか?金沢と言ったら兼六園。もう代名詞のような存在になっているこの兼六園です。実際に足を運んでみていかがでしたか?
「ひろ〜〜い」
観光に来たはいいものの一体何が面白いかわからないm(_ _)m だいたいそんな認識の兼六園ではないでしょうか?!!m(_ _)m
もちろん美しいお庭だった最高だ!あの眺望はどの庭園よりも素晴らしかった!そんなご意見は金沢市民としては最高に嬉しいのです。ありがとうございます。
しかしながらこのお庭というものは工芸と同じでなかなかわかりにくにものです。兼六園は歴史も深く面白さは非常に奥が深く、簡単に理解できるものではない。
地元の兼六園の認識もだいたい同じ
実は兼六園は早朝、開園前には無料開放しているということで朝の散歩に利用されている方もいらっしゃると思いますが、兼六園を利用する方はだいたい無料開放日だったからたまたま来た、金沢に観光に来た友人を案内しに来た、無料開放の兼六園のライトアップ夜桜を見に来たなどというシチュエーションが多く、歴史探訪などよりも「市民の憩いの場」というイメージだと思います。歴史探訪などそもそも稀。。
兼六園を歴史的に味わう、歴史的背景を考えながら兼六園なんて見ることは少ないのではないでしょうか?
石川県民、金沢市民の全員を兼六園のガイドにする!
という壮大な計画を念頭に兼六園マスターシリーズを2回に分けてお届けしていきます。
の二回の「兼六園シリーズ」としてお届けしていきます。今回の第一回はまずは基礎知識がないとなんにもわからないだろ!! ということでどこよりもわかりやすい兼六園の基礎知識に努めました。第二回は ゆりりんと行く兼六園ぶらぶら歩きツアーということで実際に兼六園を歩いて本当に面白いのか!を実践します。
この記事を読んだら「兼六園へ行きたくなる。あれ!いつもの兼六園の風景が違う!」どこよりもわかりやすく兼六園を知ることができる記事になれば幸いです。(ハードルを上げている。) ※ 誰も兼六園が面白く無いとは言っていません。すいません
まずはじめに
兼六園は様々な歴史がからみあっていて非常に難しい。絡まったスパゲティのような感じです。本マガジンではわかりやすさを重視し分かりやすくまとめました。かなり簡略化していますがご了承ください。
まずは現代の兼六園の図を御覧ください! こちらは兼六園に入園した際に必ずもらえるマップです。こちらのマップを中心に考えていきます。もし、兼六園のパンフレットをお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非そちらも広げながらこの記事をご覧ください。
兼六園の流れは大きく4つに分けました。古地図を使って兼六園の使われ方の変遷を見ると結構わかりやすいものです。
1) 連池御殿・屋敷時代(れんち) 17世紀〜
兼六園の初まりを考えていくと一体どこからが兼六園のはじまりとして捉えればいいのかという問題にまず遭遇します。前田利常時代(利家から数えて3代目、2代藩主)の江戸町などいろいろとありましたが、地図で確認ができるところからスタートとしようとします。ご了承ください。
この古地図は延宝年間で前田家では前田綱紀(つなのり)時代のものです。綱紀は利家から数えて5代目、4代藩主。この古地図で確認できるのは「御作事所(おさくしょ)」「屋敷(奥村、横山など)」が確認できます。
この「御作事所」というのはお城や屋敷などの建築物を建てたり直したりする方々が住まわれていた場所で、17年間存在しましたが、その後、この場所に綱紀は別荘を建てます。それを「連池御殿(れんちごてん)」といいます。
この時代の兼六園は御殿様の別荘「連池御殿」と「屋敷」として利用されていました。
そして、見てお分かりのように連池御殿時代の兼六園は
連池御殿と屋敷の間に道路もしっかりと描かれており、2つにわかれていたことがわかります。この2つにわかれた時代がかなり続きます。
要するに現代のマップを中心に見るとこういうことになります。
現在の兼六園にはこの2つを分離していた道路が多少残っていますが、細い小路となっています。実際の兼六園と地図を合わせてみてみましょう。
だいたいこの辺りが現在の兼六園を2つに分けていた道路があったということになります。2つに分かれている兼六園の時代が長く続くので覚えておいてください。
連池御殿の場所
先程に連池御殿は御殿様の別荘であると説明しましたが、ではこの「連池御殿」の建物は一体どこにあったのかという話です。それは、現在の兼六園の「時雨亭跡(しぐれていあと)」周辺にあったと言われています。
兼六園の噴水のおよそ斜め向かい。治部煮そばが美味しい兼六亭さんのお隣あたりです。
この「連池御殿」ですが、ちょっとだけ詳細な図も残っていてかつての姿がちょっとだけ伺えます。現在の瓢池なども今と同じように残っていることがわかります。
そして、この連池御殿は代々と受け継がれていくのですが、「宝暦9年の大火」で消失してしまいました(諸説あります)。この宝暦の大火というものが相当な大火でして本マガジンでも大々的にまとめてあります。なんと金沢の80%の建物を焼くという信じられない大火事となります。
宝暦の大火以降の連池御殿の場所は「火除地」として手付かずのままになっていたのですが、学校が建設されるということで兼六園は次の時代に突入していきます。
2) 学校時代 寛政3年(1791年)〜文政2年(1819年)
学校は10代藩主の前田 治脩(はるなが)によって設立されることになるのであるが、もともとは5代藩主である前田 綱紀(つなのり)が元禄4年に書き残した「大願十事」のなかでその構想をかかげたことに始まります。直接的な影響という意味では治脩の父である第9代藩主 前田重教(しげみち)の意思を継いで学校設立することになります。
9代藩主の前田重教(しげみち)は加賀藩士の思想改善をかかげ、儒学の古典である経書を教えることを行っていた。その学校の設立も考えていて学校の設立場所なども検討していたようであるが、道半ばで逝去してしまう。代10代藩主の前田治脩(はるなが)はその意志を受け継ぐ形で、かつ江戸での「寛政異学の禁」の流れもあり学校設立に繋がる。
学校の場所は金谷門向かい(しいのき迎賓館・中央公園辺り)なども検討されたのですが、兼六園の千歳台(揚地)になる。工事は寛政2年(1790年)10月に始まり、寛政3年(1791年)2月2日に完成します。
と、とりあえずこれだけ覚えておけば大丈夫!
学校の種類 明倫館(めいりんかん)と経武館(けいぶかん)
この学校は2つ作られました。一つは明倫館(めいりんかん)明倫館では儒学が中心で和学や礼法・算学・天文暦学・医学などがあったといわれる。もう一つは武術を教える学校。経武館(けいぶかん)です。こちらはもう文字からもわかるように剣や槍、弓馬術などを教える学校でした。
今もこの学校に掲げられていた扁額(へんがく)が金沢大学に残されています。兼六園の扁額にしても本当に長持ちするもんだなと感心します。
現代の兼六園における明倫館と経武館の場所
ここで現代の兼六園には跡形も無い学校の場所を推測します。残っているのは加越能文庫「政隣記」中の「揚地惣囲御絵図」
この図から学校の場所を推測するのはかなり難しいのですが、あくまで推測してみました。
参考にできるのは図にある「連池囲」と「往来」の場所。あとは距離も多少書いてあるのでその距離を元に推測してみました。現在の「金沢神社」も実はこの学校整備の時に作られました。実はこの金沢神社は聖堂(孔子を祀る堂)を作る予定であったが何故か工事の途中で中断、その代わりに天満宮が作られるという経緯があります。
この学校時代で抑えておけばいいのは
ということです。意外とわかりやすいでしょう。
3) 竹澤御殿時代 文政5年(1822年)〜明治7年(1874年)5月7日兼六園一般公開まで
いよいよ時代は江戸後期に入ってきて、現在の兼六園の姿を現し始めるのがこの竹澤御殿(たけざわごてん)時代です。竹澤御殿時代には2人の重要な人物がいます。11代藩主 前田斉広(なりなが) そして12代藩主 前田斉泰(なりやす)の2人です。もちろん連池時代にも兼六園の原型が作られてはいましたが、兼六園が形成されていく過程でこの二人の親子が非常に大きな役割を果たします。兼六園の名前にしても、兼六園の形にしてもこの親子の存在なしにしてはありえませんでした。
11代藩主 前田斉広(なりなが)と竹澤御殿、そして能
御殿様といえどやはり同じ人間だったのだろうと今の時代では容易に想像がつきます。全員が全員心も体も強いというわけではない。それも容易に想像がつきます。
御殿様いえど前田斉広(なりなが)は体調をくずすことが多かったようです。それは文化14年(1817年)の後半くらいから顕著になってきます。文化9年(1812年)に参勤のために金沢から江戸に向かうのであるが、体調を壊したのであろうか、まず金沢の出発が12日ほど遅れる。無事に江戸には到着するのであるが、江戸には登城することができなかったという。その後、江戸に滞在すること2ヶ月。前田斉広(なりなが)はようやく徳川 家斉(いえなり)に拝謁(はいえつ)することになる。
そのさらに2ヶ月後の江戸滞在中に前田斉広(なりなが)の母である貞琳院(ていりんいん)が病に倒れたことを耳にするのであるが、大雪の2月にもかかわらず江戸を発ち金沢へ向かった。家臣たちは振り回され相当苦労しただろうと容易に想像がつく。
あの交代ルートでもある碓氷峠(うすいとうげ)や親知らずを真冬に抜けるわけですから相当の苦労だっただろう。無事に江戸から金沢に到着するのですが、この事をきっかけに前田斉広(なりなが)は公の場に一切姿を見せなくなってしまう。参拝にも行かず、政務の報告設けず、まさに
引きこもりとなってからのこと、お存じの方も多くいらっしゃるかと思うのですが加賀藩でも大きな事件の一つである 「十村断獄事件(とむらだんごくじけん)」 が起こる。この 「十村断獄」 とは簡単に言うと税収が上がらないからなんとかしろ! と加賀藩が締め付けを行うわけですが、それでも税収が上がらないので、税金を回収する大切な役割を担っていた「十村が不正をしている」と罪をなすりつけます。
この「十村」は農民からの税金徴収などとても大切な役割を担っていました。税を管理している十村が途中で抜いていると結論づけたかったのだろう。締め付けても締め付けてもやはり不正していると無理やり結論づけ、十村を島流にする事件。それが「十村断獄事件」です。十村が不正したと言われた額はなんと80万石。どう考えても狂った話なのです。村井家の家臣が行ったと言われますが、斉広の指示が全く無かったとは言えないだろう。
金沢のボランティアガイド、通称伝説のまいどさん = 武野さんが言うにはこの前田 斉広(なりなが)は自ら「藩政のことが気になり、気鬱が増長し、そのことを年寄達が不安に思うだろうと考えるとそれが心労になる」とか「藩主の地位が恐ろしく、恐ろしい身分から逃れたい」などといっているという。
要するに先に説明した十村事変など斉広の精神状態の問題と無関係とは言えないだろうということである。
長くなってしまったのでちょっと話を早めると、そんな問題を抱えていた前田斉広は早いうちの隠居を考え始めるのである。
そして、ここからが重要です。従来までは隠居することになると「金谷御殿」といって尾山神社のあたりのところに隠居場が設けられており、そこに隠居することになっていたのですが、薄暗く湿っぽいということで
趣味の能もしまくりたい!!
ということから前田斉広の意向で苦しい財政の中にもかかわらず(諸説あります)竹澤御殿を建設する事となるのです。とってもハショッてしまいました!!ごめんなさい!! m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m そのような経緯から
これを覚えておいてください。
竹澤御殿の全容
それではどのような御殿が現在の兼六園の中に建っていたかということを説明していきます。まず、冒頭の地図でもありましたように
連池ではない場所、屋敷があった部分、学校が建っていた部分、すべてが竹澤御殿となっています。その竹澤御殿の絵図が残っています。それが
この大きな建物が兼六園の中に建っていたわけです。今となれば想像もつきませんね。
この竹澤御殿の図を現在の兼六園の上にレイヤーとして重ねてみました。竹澤御殿の痕跡も探しやすくなるのではないでしょうか? おそらく他では見たことがないので今回の公開が初公開なのではないでしょうか?
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面白いことに竹澤御殿を現在の兼六園からその風景を探しだすことができるのです。見どころなどは「第二回の兼六園マスターシリーズ」で行おうと思っているので詳細はお話しませんが、竹澤御殿の寝室の枕石の話や斉広が講じた能舞台、金箔の製造をしたといわれる御細工所(場所の推測が可能)など、その場所の跡形が多少残っています。
前田斉広(なりなが)と能
現在の兼六園の上で、かつての竹澤御殿を少しだけ先走って訪ねてみましょう。本マガジン(小西裕太)が作りました竹澤御殿と現在の兼六園とを重ねあわせたマップを使うと能舞台の場所は兼六園のヤマトタケルの尊像周辺にあったということがわかります。
前田斉広はこの辺りで彼の趣味であった能を舞っていたのかと思うだけでなかなかおもしろいものです。
この前田斉広は能が本当に好きで好きでたまらなかったようなのです。竹澤御殿完成の際にはその祝として金沢城下に休日の令を出し盛大にお祭りが行われました。「慰み能」ではおよそ6,000人近く人を招いたとのことです。また、竹澤御殿で働く役人は140人あまり。その多くも能役者だったのではないかという話もあります。
ここでいかに斉広が能にハマっていたかということをまとめておきました。
文政5年 【61回】(竹澤御殿に隠居 12月)
文政6年 【64回】(奥舞台開き能を披露 3月)
文政7年 【43回以上】(6月以降病気を患う)
文政6年には安定的に月6回行っていたという記録もあるので一週間に1.5回行っている計算である。文政7年3月には斉広、斉泰の親子水入らずの能の共演が行われるなど親子の共通の話題としての能があったのだと思う。
文政7年6月 斉広が逝去する一ヶ月前のことである。6月の氷室開きでその時に城内では能を組み入れた催しを行うことが恒例になっていたようであるが、斉泰が演じるはずであった「三笑」 は斉広は体調不良によりキャンセルすることとなる。この時の病状は大好きである能ですらキャンセルするということだから、相当病状は進んでいたのだろうと推測ができる。斉広の演目以外に演じられた能は息子である斉泰、他亀治郎(斉広の次男)などがしっかりと斉広の分までしっかり演じたのである。病状に伏せる父を横にし、2人はどのような気持ちで能を舞ったのだろうか。
この斉広のキャンセルがあった氷室開きの能の翌年、文政7年7月9日に斉広は逝去することになる。斉広、斉泰の家族にとって能というものは家族として共有できる大切な存在だったのだろう。 斉広が踊るはずであったキャンセルした能 「三笑」 という演目であるが(詳細はこちら)、斉広・斉泰・他亀治郎の3人で楽しく笑うということを投影していたのだろうと思うと斉広の深い愛情を感じるのでした。
能で共有した家族の時間、斉広の深い愛情がこの先作られる兼六園に影響していく
のではないかと私は思っています。斉広は単に趣味の能を演じていただけではないか? 趣味だろ? 遊びだろ? と非難されることもあると思いますが、能は斉広という一人の人間の、一つの家族の共有することのできた大切なものだったのだと思う。旅行に行ったりと現代では当たり前のような時間を共有する家族の風景がそこにはあったのかもしれない。
第12代藩主 前田斉泰と竹澤御殿解体、そして兼六園
竹澤御殿の解体の理由は実のところははっきりしていません。記述されている史料もなく、贅を尽くしているから解体しろというような幕府からの非難も見当たらない。ただ、ずっと財政難であった前田家は竹澤御殿を解体し、資材を資金にしようとしたのではないか? と私は思っています。結果としてその多くは幕府に売ることもできなかったのですが。
この解体などを行っていったのが斉広の息子である12代藩主 前田斉泰(なりやす)です。前途したように斉広と水入らずの能を一緒に演じたりしていた斉泰です。
まずは霞ヶ池、栄螺山(さざえやま)が建設されます。なぜ建設されたのか?という問題ですが、結論から言うと斉広の正室である真龍院(しんりゅういん、斉広の妻、斉泰の母)への斉泰の深い愛情があったのではないかと思います。多少ハショッて申し訳ないのですが、斉広の逝去の後に金沢に住むことになる真龍院のために斉泰が竹澤御殿の整備を進めたとされている(成瀬正敦日記より) ご存知のように現在の兼六園ではこの霞ヶ池は湖園の眺望だとか”兼六”になぞられているといわれるわけですが、斉広を偲ぶ場所として、斉泰の真龍院への優しさがこの霞ヶ池を作ったのではないかと思われます(真龍院は現在の兼六園の場所に御殿を建てることに反対だったなどとも言われるのも推測の要因)。栄螺山の上にある石塔、慰霊塔は斉広を偲ぶための場所であることも忘れてはならない。
兼六園は斉泰の家族の思い出の場所の整備、真龍院が斉広を偲ぶ場所として整備、斉泰の優しさが兼六園を形成していったのではないか
兼六園というのは愛情深い場所の一つなのではないかと私は思っています。
また、竹澤御殿が解体されていくときに何をコンセプトにしていったかという全体的な話です。この兼六園という名前の由来にも関連するのですが、実は「竹澤御殿」という名前が決まる前にすでに「兼六園」という名前が決まっていました。要するに
ということ、とても重要なのです。最後の「兼六園の名前について」という部分でお話しますが多少先に触れておきます。
文政五年十一月十五日 前田斉広の隠棲許可せられたる時は、蓮池上の御殿に移り、之を「竹沢御殿と称すべき」ことを告ぐ
文政七年七月九日 前田斉広 逝去
竹澤御殿解体へ
斉泰は兼六園という名前ありきで兼六園を造園していった。
と思います。では少しずつ形作られていく兼六園を見ていきましょう。
竹澤井連池庭御囲之図(金沢市立玉川図書館大友文庫)
栄螺山、霞ヶ池が造設されていきます。能舞台を始め数多くの建物が取り壊されている事が図よりわかります。また、現在の兼六園でも霞ヶ池の上にある「蓬莱島(ほうらいじま)」ですが、場所的にこの蓬莱島はおよそ「竹澤御殿の蔵」に位置するところなので、もしかしたらそのまま残されたのではないかと思っています(推測です)。
竹澤御屋敷総絵図(金沢市立玉川図書館大友文庫)
意外と知らない方は知らないと思うのですが竹澤御殿から兼六園が形成されていく過程で敷地内には畑があり鶏も飼われていた事があったのです。
そして現代の兼六園ではおなじみとなっている琴柱灯篭周辺に「水樋上門」(水道上門)がありました。こちらは兼六園古図(連池園図)金沢市立玉川図書館 に描かれています。
この「水樋上門」が竹沢御殿(揚地・千歳台)の玄関口となっていました。おそらく学校時代の入り口も同じ場所だったのかもしれません(未調査)。
この「水樋上門」(水道上門)の場所は琴柱灯篭周辺にありました。琴柱灯篭を見るときには一度このあたりも意識して見てみると面白いかと思います。
兼六園図 (金沢市立玉川図書館大友文庫)
ようやく「兼六園」という名前が資料に登場します。後にこの兼六園という名前の由来の話をしますが、どのような経緯で兼六園という名称になったかというのも非常に論議を呼んでいるところで面白いのです。この兼六園図では先に触れました「水樋上門」(水道上門)が取り払われていることです。竹澤御殿の出入り口が取り払われたことで連池と竹澤御殿が一体化となったということになります。見ても分かる通りようやく現代の兼六園の姿を表したということでしょう。
この竹澤御殿時代をどこで切ろうか色々と考えましたが、竹澤御殿が解体され大政奉還が終わり、明治7年(1874年)5月7日兼六園として一般公開されるまでを竹澤御殿時代として解釈しました。いよいよ皆さんの知る兼六園時代に突入します。
4) 兼六園時代 明治7年(1874年)5月7日〜
幕末を迎え、大政奉還を経て、ご存知のように前田家による加賀藩の藩政時代に終わりを告げることとなります。それに伴い兼六園も藩のものから少しずつ馴染みのある公園として形を変えていきます。
まず竹澤御殿解体され、この場所は、明治4年2月(1871年) 与楽園(よらくえん)として公開されます。 この名前は14代藩主 前田 慶寧(よしやす)が命名するのだが、名前の由来について 「四民偕楽之旨趣を以」 とあり 与(とも)に楽しむ場にしようという思いがあった。
この与楽園(よらくえん)ですが、初めて一般に公開されることになるのだが、その公開には多少の制限があって面白い。
・百間堀中ほどの坂口門から出ること
・庭を荒らす履物は認められない
・雨の日は入園は認められない
19回の入園に限られるということですが、月に一度は入園してもいいよ!ということです。意外とこんなに多く入園することはないかもしれません。
しかし、この与楽園(よらくえん)の名前はわずか二週間程度で改名されます いよいよ皆さんが知る「兼六園」に改められます。
与楽園(よらくえん)から兼六園への改名
この与楽園(よらくえん)から兼六園への改名が重要なポイントなのです。
まず、この改名を行う権限を持っていたのは藩知事であった慶寧と、隠居していた前田斉泰(なりやす)であるということです。おそらく馴染みの薄かった与楽園(よらくえん)を改名に関与したのはこの斉泰ではないかという話です。
先にも少しだけ触れましたが、この斉泰は竹澤御殿と命名される前、文政5年、斉泰がわずか12歳のときであるが、参勤にて家督相続のために江戸に滞在したとき、松平定信に兼六園の文字を書いてくれと依頼したタイミングと同じであり、おそらくその兼六園の名前の由来の経緯を知っていたと思われる。
その後、前途したように斉泰は少しずつ竹澤御殿を解体し今の兼六園に近づいていくわけであるが、そのプロセスの中で間違いなく「兼六園という名前が斉泰の中にあった」といえる。先にも述べたのだが、この竹澤御殿を解体し、造園していくプロセスの中でも兼六園という言葉が斉泰の中にあったといえる。
ゆえに斉泰は息子がつけた与楽園(よらくえん)という名前ではあるものの、その名前に違和感を覚え「兼六園の名前への改名に乗り出した」のではないか。この改名後、明治4年2月に兼六園として一部、一般に公開されることになるのである。
この斉泰が知っていたであろう兼六園の名前の由来について、一体誰がこの名前をつけたのかという重要な話につながりますので覚えておいてください。
そして、正式に兼六園が公園として任命されるのは明治7(1874)5月7日 太政官布告によって認可、そして正式に一般公開となります。なので、兼六園としてスタートというのはこの明治7年(1874年)5月7日です。この日は兼六園開園記念日としてイベントが今も行われることがあります。いよいよ誰でも入れる兼六園が始まるのです。
明治〜昭和の兼六園
明治時代にはいるとこの兼六園は日露戦争などの影響や、当時大きな勢力を持っていた長谷川某の邸宅が兼六園内に建設されたりと兼六園は残念なことに徐々に大名の庭園としての姿とはかけ離れていきます。
大正に入り和田文次郎な巌如春などが率先していた「加越能史談会」などの活動もあり兼六園のあり方について徐々に論議され、大正5年(1916年)その加越能史談会は兼六園保勝についてまとめた「保勝意見」という調査結果を知事に提出することになる。
その時の兼六園の復旧案は3つだった
2. 前田斉泰(なりやす)時代に準ずるもの(竹澤御殿解体後)
3. 新しい公園として公園を整備するもの
この3つのうちで「2の前田斉泰時代に準じるもの」として復旧が進む事となります。そして、皆さんのご存知である今の「兼六園」につながっていきます。
そして! ここからが今なお続く謎である
近年新しい発見がありましたのでまとめておきたいと思います。
兼六園の名前について
そもそも、兼六園の名前は誰がつけたの? 知っている人なら間違い無くいうでしょう。
この松平定信が名前をつけたと従来から言われてきました。松平定信とは隠居後には白河楽翁(しらかわらくおう) と呼ばれています。
暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗の孫にあたるのがこの白河楽翁、松平定信です。
この「兼六園」と言うのは「洛陽名園記(らくようめいえんき)」に由来すると言われています。北宗の詩人である李格非(りかくひ)が19の庭園を解説したのが「洛陽名園記」です。
宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望 の6つを備えているのは「湖園」である。湖園である兼六園は素晴らしいというのが兼六園の名前の由来です。
従来まではこの「兼六園」という名前は江戸後期 文政5年(1822年) に前田斉広(なりなが)から松平定信に命名の依頼があり、松平定信によって「兼六園」と命名されたと言われてきました。
渡邊夫妻の大発見が 兼六園 命名の定説をあっさり覆す
近年新しい発見がありこの松平定信命名説は否定されています。その松平定信説を覆したのは渡邊 金雄さんご夫妻。平成11年(1999年)に昭和石油・シェル石油を退職後し、その後は古文書を読むという趣味を第二の人生として、趣味として親しんでいました。
なんとも文化的な趣味で素晴らしいです!
茶道(裏千家)をたしなむ奥様が掛物(掛け軸)などの内容に興味を持っていて気がついたら夫婦で古文書を親しむという文化的な趣味を生き甲斐にしていらっしゃるとのこと。この渡邊ご夫婦が松平定信命名説を否定することになりました。
その詳細ですが渡邊夫妻が松平定信自筆の日記である「花月日記」を解読したときに見つかります。松平定信は文政5年(1822年) 9月20日に兼六園の文字を書くことを依頼された経緯が書かれていることを発見。
わかりやすく現代語っぽく書くと
そもそも松平定信は兼六園という言葉を知らなかった ということが「花月日記」にかかれているということです。
松平定信が命名だと長年言っていた割には松平定信の日記を解読してないのかよー。と思ってしまう私がいるのですが。
それでは一体誰が兼六園という名前をつけたと言うのでしょうか。
兼六園という名前は誰がつけたのか?
この「兼六園」という名前は「洛陽名園記(らくようめいえんき)」という北宗の詩人である李格非(りかくひ)が19の庭園を解説したのがこの洛陽名園記です。当時この洛陽名園記を誰が手にできたかというところがミソのように思います。前田家が洛陽名園記を手にすることができたのか。そして誰が名付けたのか。
松平定信が兼六園の文字を依頼された文政5年9月20日の前後に前田斉広、その息子である前田斉泰が一体何をしていたのかちょっとだけ調べてみました。手がかりあるかなぁ。
文政五年八月二日 前田斉泰、金沢を発して江戸に向かふ
文政五年八月十六日 前田斉泰、江戸に着す
文政五年八月十八日 前田斉広、更に来年1, 2月まで参勤延期の請を許されたることを告ぐ
文政五年八月二十九日 前田斉泰、名を又左衛門利候と称し、初めて老中を歴訪す
文政五年九月十二日 前田斉広、蓮池上の御殿へ移転の後、使役すべき頭分の嫡子を選抜録進せしむ
文政五年九月十五日 前田斉泰、初めて登営して徳川家斉に謁す (斉泰12歳)
文政五年九月二十日 松平定信に兼六園の揮毫(きごう)を依頼す
文政五年十一月十五日 前田斉広の隠棲許可せられたる時は、蓮池上の御殿に移り、之を竹沢御殿と称すべきことを告ぐ
文政五年十二月十六日 前田斉広、竹沢御殿に移る (事実上の隠居)
文政六年三月十八日 前田斉広、竹沢御殿に移るを祝し、今明日能を演ず
文政七年七月九日 前田斉広 逝去
ここで分かるのは兼六園という名前は前田斉広が「竹澤御殿」に隠居する前に松平定信に依頼されていたということです。竹澤御殿という名前は「蓮池上の御殿」と呼ばれていたが文政5年11月15日に「竹澤御殿」と名前が定まる。 その名前が決定する前に兼六園という名前はすでにどこかで生まれていたのだろう。
松平定信に兼六園の文字の揮毫(きごう) を依頼されるひと月ほど前(文政5年8月)に前田斉泰一行が江戸を訪れているので同時に「兼六園」の文字を託されていった可能性が否定できない。
江戸を訪れた前田斉泰はこの時わずは12歳。現在の兼六園の基礎にもなっていて兼六園には大きな思い入れがあったとは思うが、12歳の彼が命名したとは思えない。前田斉広が「兼六園」を命名したと言われるが「政隣記」にはこの前田斉広は蓮池にも足を運ぶことも少なく、鷹狩りもすることは少なく理想を持って兼六園と名付けたとは考えにくい。
要するに、竹澤御殿に移転する前、そしてさらには「竹澤御殿」という名前がまだ定まっていない時に誰かが「兼六園」という名前を考案し松平定信に依頼したということだ。
洛陽名園記に「兼六」について書かれているわけだが、当時の漢文などに精通していたのがこの「富田景周」 痴龍扇が思い浮かぶ。文政2年の「蓮池考」、そして漢文集である「燕台風雅(えんかいふうが)」 なども書いていることを考えると、もしかしたら洛陽名園記に触れていた可能性はあるのではないか? と推測しています。まだ推測の推測レベルで大変に申し訳ないのですが、今後色々と探ってみたいと思っています。
なんともともあれ、「兼六園」という名前は竹澤御殿、連池と千歳台と分離していた時代にこの名前が考案された。その後、兼六園という名前が斉泰の頭のなかにありながら造園が進む。要するに名前ありきで作られたのがこの「兼六園」ということになる。「兼六園」という名前の完成のタイミングを考えるだけで見方が変わりませんか?
冨田景周についても本マガジンでは詳しく説明しています。
さいごに
いかがだったでしょうか? 「【保存版】兼六園マスターシリーズ 〜基礎講座編〜 兼六園の見方が変わる!どこよりもわかりやすい兼六園の説明に努めました!」 兼六園という難解すぎてどうしたらいいのかわからないくらいの歴史の層のあるものをどのように書けばいいのか相当悩みに悩みました。
もしかしたらご存知ではない方はいうのかもしれません。前田利家の時代から兼六園があったんだよ。前田利家のことを知っていて、兼六園を理解しようと思ったらそうなるのも無理はありません。前田利家の時代には兼六園というものの姿はほぼありませんでした。この記事でも前田利家のことは何一つ触れておらず、せいぜい江戸町、前田利常(としつね)時代(利家から数えて3代目、2代目藩主)からくらいしか兼六園について話できることはないように思っています。
そして、兼六園は大きく分けて4つの時代
2) 学校時代
3) 竹澤御殿時代
4) 兼六園時代
に分けて考えるとわかりやすいということ。ずっと今の兼六園の姿形ではなかったのです。これは大切ですので忘れないように!
次に忘れてはいけないのは
12代藩主 前田斉泰(なりやす) = 竹澤御殿を解体し兼六園造園へ
この2名の存在をしっかりと覚えておいて欲しいのです。ふりかなも多く入れておいたということも覚えておいてほしいための配慮です。
そしてマニアックなところを攻める本マガジン的には
斉泰は「兼六園」という名前を頭のどこかに秘めながら造園していった。
ということを覚えておいてほしいと思います。これだけ覚えておけば兼六園が何倍も面白くなるのではないかと思っています。
金沢に来て兼六園を歩いても
どうでしたか?兼六園の見え方が変わりましたか?
参考文献
- 兼六園を読み解く その歴史と利用 長山直治 桂書房 2006年
- 加越能近世史研究必携 田川捷一 北國新聞社 1995年
- 兼六園 石川県金沢城 兼六園管理事務所 2016年
- 兼六園全史 石川県公園事務所 1976年
- 名勝 兼六園 新保千代子 北国出版社 1972年
- 成瀬正敦日記
- 加賀藩史料 日置謙
- 金澤古蹟志 森田平次
- 加能郷土辞彙 日置 謙 1956年
- 兼六園パンフレット
- 加陽金城下図 文政6年1823年
- 加越能文庫 政隣記 「揚地惣囲御絵図」
- 安政頃金沢町絵図 1854年〜1860年
- 竹沢御殿御引移前総囲絵図 金沢市立玉川図書館清水文庫
- 竹澤井連池庭御囲之図 金沢市立玉川図書館大友文庫 天保・引化年間推定
- 竹澤御屋敷総絵図 金沢市立玉川図書館大友文庫 安政3年8月
- 兼六園古図 金沢市立玉川図書館
- 兼六園図 金沢市立玉川図書館大友文庫
- 風俗画伯 巌 如春 石川歴史博物館
- 北国新聞 1995年(平成7年)6月5日
- 昭和シェル社友会中部支部 私のライフワーク 渡邊金雄さん