「金澤古蹟志」金沢の百科事典をご紹介します!時代は進化しWebで幕末・明治の本を読む時代に!地味な企画ですいません!
みなさんこんにちは。本日は本マガジンでは不人気な企画かもしれません。。地味な歴史のお話です。
本マガジンでも何度かこのような地味な企画をやっておりまして、あまり興味のない方にしてみたら睡眠材料になるくらい退屈なものなのかもしれませんが、本マガジンは
今こうして観光に多くの人達が訪れてくれている北陸・金沢の今を作ってきた人たちへの多くの敬意であるからです。
以前に石川県の郷土の泰斗という特集を行いました。その時にはWebでは絶対に取り上げられないであろう数多くのおっちゃん(敬意を込めて)達にも登場していただきました。富田景周、森田平次(柿園)、日置謙など数々の泰斗をご紹介いたしました。
今回は、すでにご紹介した石川県の郷土史の泰斗の中でも私が最も愛している森田平次の「金澤古蹟志」をちょっと掘り下げてご紹介したいと思います。
コンセプトはみんなが簡単に金沢のことを深く掘り下げる事ができる。金沢を知るための技術をみにつけるということが大きな目的、コンセプトです。
※ 画像の中の「プリント1」などの記述は趣都金澤で開催した第40回趣都塾のイベントの時にお配りしたプリントと対応しています。イベントの概要はこちらにあります。参加の皆様有り難うございました。
郷土の泰斗の変遷
以前にも本マガジンでご紹介いたしましたが郷土の泰斗ということで多くのおっちゃん(敬意を込めて)をご紹介いたしました。 [ 石川県の郷土の泰斗!とても地味ですいません!石川県や金沢の歴史を詳しく知るにはまずこのおっちゃん達のことを覚えておこう! ]
その変遷をちょっとこちらでもご紹介いたします。
今回この郷土史の泰斗の変遷の中でもご紹介している森田平次(この先森田柿園で統一) の金澤古蹟志の掘り下げです。森田柿園の位置づけをちょっと理解しておくと良いかと思います。
以前の記事でも書いてあるのですが、森田柿園のおはなしからちょっと。
森田柿園(もりたしえん)
森田平次の唯一の写真。明治41年(1908年)6月撮影。この写真を撮影した半年後、明治41年(1908年) 12月1日に86歳で他界。
もともと、森田家の元祖である武右衛門が柿木畠に住み始めたのがきっかけといわれます。ちなみに森田武右衛門は越前吉田郡森田村(福井市)の出身と言われており、今も福井駅の隣辺りに森田という駅がありますがその周辺です。
森田は、明治の戸籍法に伴い森田平次という名前となりますが、平之祐(へいのすけ)、良見(よしみ)、そして柿園(しえん)とも称しています。この名前は八代 作左衛門(さくざえもん)の時に六十石となって家を柿園舎(しえんしゃ)と名づけたところに由来します。この柿の園は柿木畠から由来しています。
柿木畠の名前の由来は
柿木畠は藩政時代からある町名で、まちの真ん中には、藩政期に築造された金沢城西外惣構堀が、現在も水を湛えており、飲食店を中心とした活気ある商店街のなかに、歴史的風情とうるおいを醸しだしています。火事が多かった藩政時代に、火除けとして植えた柿の木は、宝暦8年(1758年)当時のの金沢町絵図では、150歩ほど(約500平米)の畑として見ることができますが、宝暦9年(1759年)の大火災により、すべて消失してしまいました。
それ以後、旧柿木畠では、由緒ある柿の木の姿が見られなかったのですが、柿木畠復活を契機に、地元商店街は、「柿の木」を「まちの木」として、町内の各所に植え、まちの緑を演出しております。
ちなみに、火除け地に植えられた柿の木は、飛鳥時代の歌人で、万葉集で名高い「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」をもじり、「柿の木のもとでは火が止まる」と昔の人々は信じ、それに因んだといわれています。
という金沢市の由来を引用させていただきます。詳細を知りたい場合は日置先生の郷土辞意、角川の地名辞典などを参考にすると良いかと思います。
森田柿園の生い立ち
1868年 加賀藩に仕える
1869年 前田家「家録編集係」となる
1870年 前田家の「御前講」をたまわる
1871年 前田家の「蔵書調査係」をたまわる
1872年 蔵書調査終了し前田家蔵書を自宅に借用
1872年 「白山論争記」を執筆し白山が石川県の管轄となる
1876年 石川県を辞職(54歳)
1891年 「金澤古蹟志」執筆 (68歳)
1908年 没
前田家の「家録編集係」「蔵書調査係」や「御前講」を賜っていたりと加賀藩の仕事をタタしていたのですが、ズルいことに蔵書調査終了し前田家蔵書を自宅に借用したという話です。いいなぁ。柿木畠の森田の蔵にはこの時の蔵書があったのでしょう。そして、重要なのは1872年に「白山論争記」を執筆し白山が石川県の管轄となったということです。森田の歴史的考察が白山を石川県の所属にしたのです。今の白山が石川県なのは森田の功績と言っても過言ではない。
森田柿園の住まい
森田家の場所は旧上柿木畠四十三番地(広坂一丁目4-1 元々は北村ビル、現在はパークステーション柿木畠) 八代作左衛門のときにやや広かった東隣りの出雲屋七右衛門の家と交換して移住。
森田柿園の墓
墓は金沢の駅西、線路沿いにある曹洞宗の放生寺。新幹線で賑わう金沢駅の西口から歩いてすぐのところに森田の墓はあります。森田はこの新幹線で賑わっている金沢駅を見てどのように思うでしょうか。
森田柿園の人柄
非常な勉強家で、眠るのは一日にわずか三〜四時間。用事のないときは 目を閉じて視力の衰えを予防したという逸話。 編集作業も独特で文章と文章の間に一行を追加する際にはその 間を切り紙を張り継ぎ足して一行を追加するなど独特な編集方法を行っていた。
これらの森田の人柄は日置先生が愛を持って金澤古蹟志の最後にかかれています。是非後ほど読んでみてください。
森田柿園のご子孫
森田柿園の曾孫「鈴木 雅子」が書いた「金沢のふしぎな話」四代の森田盛昌の「咄随筆」(ばなしずいしつ) 九代 大作良郷 (よしさと) 「続咄随筆」などを現代語訳として復活させた「金沢のふしぎな話」森田家の研究を含め金沢のDNAを完璧に受け継いだ由緒ある本。以前にもご紹介しているのですがぜひ金沢マニアのあなたは購入しちゃってください!
金澤古蹟志とは
ここからがようやく本題という感じです笑。ここまでは以前の記事 石川県の郷土の泰斗!とても地味ですいません!石川県や金沢の歴史を詳しく知るにはまずこのおっちゃん達のことを覚えておこう! に詳細が掲載されています。さらに詳しくご覧いただけます。是非参照してみてください。
さて、金澤古蹟志ですが、金沢の場所の由来や逸話などがまとめられている言ってみれば金沢の百科事典とも言える本なのです。その特徴は言い始めるときりがないのですが、例えば一つの出来事を調べようと思ったら数多くの本を集め無いといけないのですが、金澤古蹟志は多くの文献が事柄ごとにまとめられているので非常に読みやすいのです。とにかくあちこち参照しなくていいのが本当に素晴らしい。
そしてなにより活字で現代人の私達でもすぐに読めるのが最大の魅力なのです。実際には日置先生が読みやすく再度構成して出版しているのですが、それでも読みやすいのは本当にありがたい。
とはいっても実際に金澤古蹟志を見てみないことにはどんなものかわかりませんよね。
オンラインで読める金澤古蹟志
この金澤古蹟志ですが、もう販売されておらず金沢市内の図書館でもほぼ持ち出し禁止でなかなか手にするのは難しいのです。では実際に古書で買えばいいじゃないか!と実際に買おうと思うと思った以上に高く感じるかもしれません。だいたい3冊で3万円ちょっとです。日本の古本屋さんで検索できます。
※2018年4月リンク先更新
または普通に「金澤古蹟志」と検索するだけですww 金沢市さん本当に有難うございます。これは本当に素晴らしい。
その他、金沢文化協会出版物もPDFとなって自由に閲覧できるようになっています。
この金沢文化協会というのはは昭和7年に創立された金沢市立図書館の後援団体。会員には巖如春、鏑木勢岐、八田健一、日置謙などの戦前に郷土史家・文化人として著名な人たちが参加していました。この金沢文化協会の出版物には「金澤古蹟志」「加能郷土辞彙」「昔の金沢」「加能古文書」 など有名な本が数多くあります。
もちろんですが今回ご紹介している金澤古蹟志の全ページのダウンロードが可能となっています!
とはいえ金澤古蹟志は読みにくい
活字でラッキー!といってもそもそもの話、金澤古蹟志は読みにくいのです。まぁそうか。目次としては金沢の大きな場所でくくられていますが、どのように目次を扱えばいいかもかなり難しいのが実際です。
PDFで読めますが全ページのダウンロードまたは一部のみのダウンロードが可能であるという話だったり(実際にこれがベストなのですが)DownloadしたPDFは文字検索できるが微妙。OCRの認識精度、縦文字で検索されたりとなかなか目次を読むのも難しい。また、ある程度場所ごとにまとめられているが地図からなどもっと横断的に検索できたらいいのにー!と思ったりします。
実際に金澤古蹟志の目次を見るとわかると思いますが、昔の町名や逸話など、一体何のことなのかわからないと思います。。くやしい。。
目次(町名)などからそもそも金澤古蹟志を読めるのか
金澤古蹟志の目次をどのように読むかというはなしになるのですが、まず考えつくのは現代の町名との対照表があると目次が読みやすくなるのでは?というお話です。しかし、ちょっと前まであった町名が近年でもなくなったりしているように町名は時代によって異なり、またエリアもなかなか絞りにくくなかなかむつかしいのが実際でしょう。
旧町名を読むための様々な地図などは下記のようにいくつかあります。
『かなざわ復刻地図』(刊広社)
『角川日本地名大辞典 17』(角川書店)
『金沢町名帳』(金沢市立玉川図書館)
『金沢町絵図』(金沢市立玉川図書館)
『安政頃金沢町絵図』
金沢市のまちしるべ一覧
金沢市の町しるべはなかなか分かりやすくGoogle Mapでも何方様かがまとめてありました!わかりやすい。
また『安政頃金沢町絵図』にも多少町の名前が書かれております。川南町や野町、片町の名前が読み取れます。
とはいっても、
↑ の目次が読めるわけではないですよね。。どのようにしたら簡単に金澤古蹟志を読むかはやはり問題!というわけで。。
とにかく街歩きするようにふらふらと目的を定めずに金澤古蹟志を読むのが金澤古蹟志の最大の魅力ではないかと思います。。すいませんm(_ _)m 街歩き感がなによりステキ!「さ〜てどこを散歩するかねー」と古蹟志ページのをめくるのが真の金沢人ではないでしょうかということで問題解決しました。。すいませんm(_ _)m
では入り口ということでちょっと昔の金沢を歩いてみましょう。まずはみなさんが知っている場所「河原町・片町」周辺から。
金澤古蹟志を読む
まずはオンラインで読めるようになっている「金澤古蹟志」のサイトを開くところから金澤古蹟志を読むことはじめましょう。
魚屋町
十四巻の1である魚屋町(うおやまち) を訪ねてみます。このpdfを見ると下記のようにあります。
そもそも河原町、片町は一体どこなのかを考えるために文化八年の金沢名帳の地図を元にしました。そうすると、
竪町への入り口、マクドナルドの前ですね。こちらから竪町に入る皆さんがよくご存知の四辻。こちらから竪町に向けての事を言っていることがわかります。
そして、河原町の入り口までと金澤古蹟志は言っているので、今で言う竪町のPATIOの前の通り当たりまでのことを魚屋町と言っているんだということがわかります。
野々市屋小路
懲りずに次へ行きますm(_ _)m
続いて野々市屋小路です。こちらも同じようにオンラインで金澤古蹟志を開きます。そうすると野々市屋小路を発見することができます。pdfはこちらです。
と書かれています。
これをもとにどこにこの野々市屋小路があったかを推測すると現在のPATIOまえから「うつのみや」の前辺りにある柿木畠御厩橋(おんまやばし)の向けての小路のことであると書かれています。
これをまとめると線で書いたこの場所辺りが野々市屋小路であったということがわかります。
やはり相当地味ですね。。
権七ヶ辻
懲りずに更に続けますm(_ _)m
次は権七ヶ辻です。「ごんしちがつじ」の発音でいいと思います。こちらもまず金澤古蹟志のサイトを開きます。そこから権七ヶ辻のpdfを開きます。そうすると
と書かれています。これをそのまま現在の地図で場所を推測すると竪町の入り口のマクドナルド前の四辻のことであるということがわかります。さきほどもこちらの四辻は登場しましたね。
や、やはり相当地味ですね。。これで金沢古蹟しも簡単にWebで読めるようになったのではないかな?是非一度あなたの興味で金澤古蹟志を散歩感覚でぜひ読んでみてください。
金澤古蹟志とパサージュ論
ヴァルター・ベンヤミンという社会哲学者とアウラ
ヴァルター・ベンヤミンとは激動の1892年-1940年を生きたドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家です。フランクフルト学派の1人でもありドイツ観念論、ロマン主義、史的唯物論などを唱えた人物。フランスへ亡命するがナチス軍に追われ暗殺さたのではともいわれていますが実際のところまだその死因は分かっていません。
メディア学などでは必ず出てくるヴァルター・ベンヤミンの代表作「複製技術時代の芸術」にてアウラの喪失を唱える。このアウラというものは一体なんなのかというと 「アウラ」とは唯一無二の中に存在するその威厳や崇敬などの事を言う。しかし目には見えないもので説明しにくいのですが、例えば:仏像と写真の仏像。その差にあるのは権威だったり威厳だたりというものが「アウラ」です。写真が写すもの、現物との違い = この差がアウラ。ようするにベンヤミンは機械による複製でアウラは解き放たれたと主張したのです。ベンヤミンが生きた時代では写真や動画の発明と普及によって複製するとは一体どういうことかという哲学がはじまる時代でもありました。
パサージュ論とは
ヴァルター・ベンヤミンの遺作とも言える作品 (死ぬまで書き続けたと言われる) それがパサージュ論です。この「パサージュ」とはアーケードのことであるともいわれています。またはアケードの元の人々の夢や幻想という人もいる。そして気になるこのパサージュ論の内容は亡命先の19世紀パリのあらゆるジャンルの断片的資料集 – パリの芸術的思考の断片、情景描写、事実を記述していたりと、いってみればパリの街の百科事典とも言えるのではないかと思います。たとえばパサージュ論には
「オースマンがパリに大通りを多数通したのは、バリケードを作らせないため。パリには1830年には6,000ものバリケードがあった。細い道では馬車を横倒しにすれば道路を封鎖できた。」などの描写が描かれています。
このパサージュ論は未だに様々な人が何なのかに挑戦しているのですが、私はアウラの話にも言及しているヴァルター・ベンヤミンであったり、時代背景的にも様々なアーカイブの動きがあった時代でもあったという背景から、写真では残せないがこの記憶の断片でアウラの再現できるのではないか? という朝鮮の一つだったのではないかと思います。このベンヤミンの意気た19世紀世界大戦と滅び行く世界と残そうとする様々なアーカイブの取り組みがあったことも事実です。 写真の登場やパサージュ論、ポールオトレお取り組みや、ムンダネウム、コルビジュなど。
とパサージュ論の話をしていたら気づくわけです。
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金澤古蹟志とパサージュ論。場の記憶。
ここで金澤古蹟志と森田柿園の話を思い出してみると、森田の生きた時代の日本では明治維新、そして神仏分離・廃仏毀釈が行われ 様々なものが失われるという変化の時代でもありました。そんななかで金沢古蹟志の完成があったとも言えるのです。他方、前途のようにヴェンヤミンとパサージュ論のことを考えると、ナチスの進行と荒廃する世界。そして、パサージュ論の完成があったのではないかと思います。
そう、この二つの共通点は激変する社会の中でこそ生まれたという点ではないでしょうか。そこで重要なのは
金沢、パリと場所が変わっても「残そうとする意思こそ歴史」というDNAは変わらないのではないかと私は思うのです。今、金沢は観光の盛り上がりで金沢は激動を迎えている時だからこそ今を整理し、残そうとする意思を明確にするべき時ではないか。
そして、この金澤古蹟志が浮かび上がらせるものは一体なんなのか。それは、
ではないでしょうか。金沢の百科事典を手に取り時空を超え、場所を超え、そしてそこに浮かび上がるのはベンヤミンの言うようにあなたの体験というアウラを帯びたあなたの金沢。まさにそれではないかと思います。
さいごに
いかがだったでしょうか?「「金澤古蹟志」金沢の百科事典をご紹介します!時代は進化しWebで幕末・明治の本を読む時代に!地味な企画ですいません!」
最後はヴァルター・ベンヤミンと金澤古蹟志というちょっと以外な方向でまとめてみました。先日このお話を趣都金澤という金沢の論客だらけの場所で行わさせていただきました。その際にはなぜ、ヴァルター・ベンヤミンと森田柿園なのかという話になりました。それは、この記事の最後に書いたお話、なんとなく内容が似ているという話と激変する社会の中でこそ生まれたという書物の生まれたバックグラウンドです。そこには「残そうとする意思」を感じたのです。場所も代わり時代も違うけれどもその意思は変わらない。「残そうとする意思こそ歴史」である。そう私は主張したかったのです。
そして今金沢という場所は北陸新幹線を始めとし激動の時代を迎えています。だからこそ過去を振り返り、今を様々な形で残そうとする意思も必要なのではないか。そう思っています。Webメディアというメディアとして認められてもいないような弱小の本マガジンですが、過去の偉人達に続き過去の金沢・北陸の今昔を残していきたい。今後共本マガジンをよろしくお願いいたします。