金沢の幽玄美を歩く〜2015お盆の夜のフォトジェニックツアー〜
新幹線開業を迎えて初めて迎えた真夏の北陸。
お盆ということもあり金沢市民の台所近江町市場は大変なにぎわいでした。
近江町といえば観光のお客さんからしてみると海鮮丼だ!というイメージがあるかもしれませんが地元民からしてみたら全く海鮮丼のイメージはなく、むしろ「観光客のための海鮮丼」というイメージではないかと思います。地元の人は近江町市場では自宅の食材を買う人が多いとのではないでしょうか。しかも、バスや自転車などで近江町に足を運べる人がほとんどでしょう。わざわざ駅西・鞍月方面や杜の里などの方面から車で近江町市場へ買い物へ行くということはあまり無いように思います。あくまで海鮮丼は観光のお客さん用の食べ物。そういうイメージの近江町市場の海鮮丼です。
金沢駅でも相当混雑していたようです。金沢駅構内の「あんと」の飲食店は相当混み合っていて金沢カレーであるゴーゴーカレーや8番らーめんすら食べるのが難しかったようです。実際に私もお盆の最中に金沢駅の8番らーめんへ行きましたがあまりの混雑ぶりに諦めました。
そんな混雑していた2015年のお盆の金沢ですが、日中はとても混雑していますが夜の金沢は思った以上に空いているようです。金沢市民はコンビニ行くくらいでなかなか夜の観光地へも行くことはないのではないかと思いますが、夜の金沢は昼間見せてくれないまた違った金沢の美しさを見せてくれるのです。
観光の皆さんはもちろん、金沢市民の皆さんにも是非とも金沢の幽玄美をご紹介したいのです。
幽玄美?なにそれ??
幽玄「ゆうげん」なにそれ?
そう思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。能をご存じの方はこの幽玄という言葉に馴染みもあり、幽玄美というとどのような美しさなのかすぐにピンとくるのではないでしょうか。
この幽玄美を知るにはまず能という伝統芸能について少し知る必要があります。
元々はこの能というものは奈良時代に中国から入ってきた「散楽(さんがく)ともいわれています。平安時代には民間にも広まってきて「猿楽(さるがく)」とよばれ、鎌倉時代に入ると神社や寺などと結びついて法事などでも用いられたと言われます。その後、室町時代に入り観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)の2人によって能として完成させたと言われます。かなりざっくりしていてすいません。
特にこの能が完成した室町時代周辺は現在と異なり死と隣り合わせの時代だったと思われます。数多くの争いが起こり死屍累々の世界だったのではないかと想像するに固くありません。世阿弥(ぜあみ)の時代には応仁の乱もあり死屍累々の中にある生と死の対話や別れ、その中にある人の美しさが少しずつ能という形になっていったのではないかと私は考えています。
能というのはシテとワキという2者の対話が主です。シテというのは曲の中心人物で、ワキというのは女だったり幽霊だったりとすることが多いのですが、その両者の対話で曲が進んでいきます。
要するに生と死の対話がこの能の美しさ = 幽玄美であると考えることができます。その背景には前途のように観阿弥、世阿弥の死屍累々の世界から見出した人の儚さ、この世の儚さ、そしてこの世の美しさ。死があるから生があるのである。死が近かったからこそ見出すことができた美かもしれません。
どうでしょうか?それってお化けなのでは?とか幽霊なのでは?色々と思うかもしれませんが、生があるから死がある。死があるから生がある。死があるからこそ今が尊い。美しさもまた同じであるということではないかと思います。とても本質的で奥深い美しさです。ちょっと難しいかもしれませんが
今回はこの幽玄美を金沢の街を歩いて感じようというのが主な趣旨なのです。
趣都金澤モリ川ヒロトーさんのブラモリ川
ふらふらと真夜中に金沢の街を歩ということで、この夜の街歩きの第一人者でありますモリ川ヒロトーさんにどのようなルートが良いかお話をお伺いした所、NPO法人「趣都金澤」で開催した「ブラモリ川」の詳細を教えていただきました。
趣都金澤で行われました「ブラモリ川」では下記のルートを
というかなり過酷な観光であるということがわかりました。な、なるほど。。さすがです。。
内容は下記の通り。
本マガジンも負けずに幽玄を求めて夜歩きしよう!ということでお盆、しかも終戦記念日に歩いてきました。
金沢の幽玄美を歩く〜2015お盆の夜のフォトジェニックツアー〜
というわけで本マガジンも幽玄美を求めて歩きツアーを行いました。結果として途中でお腹が空き夜な夜な飲み屋を探して酒を飲むという事になってしまいましたがなかなか観光客の居ない夜の金沢の幽玄美は美しかったです。
距離として徒歩で 5km コースは1時間ちょうどの距離になります。
それではスタートです。
袋町〜新町、久保神社
スタートは金沢の近江町市場の横にある袋町からです。藩政時代にはこの袋町は袋のように出っ張った感じの街だったということから袋町という名前になったということです。実際に藩政時代は武蔵ヶ辻の大きな交差点から博労町までの大通りは狭い小路でした。そのため、こちら写真に写っておりますちょっと大きめの道路が北陸街道でした。メイン通りはこちらでした。
この袋町から新町、ひがし茶屋方面へ向かって歩きます。
なかなか怪しく、ライトが輝く幽玄の世界が少しずつ開けてきた気がします。
新町当たりから尾張町方面に向かって伸びるこちらの道路が藩政時代では表門として金沢城に通じていました。この城まで伸びる路を多くの大名が通ったのかと思うとなんだかこの路の深さを感じます。
久保神社
↑ こちらは久保神社。中世の時代には富樫の時代、前田家が入城する前の時代に市場が久安にあったそうです。そことのつながりでこちら久保神社周辺にも市を出したことからこの久保神社金沢の町の始まりなのではないかという話もよく耳にします。中世の時代になるとなかなかその信ぴょう性を確かめるには難しい。富田景周の越登加三州志ですらギリギリ触れられるかどうかの時代です。その真意はまだわからない。
↑ 久保神社時代はそれほど古いものではありません。この場所はもともと久保市乙剣神社(久保神社)が慶長6年に卯辰山へ移動し、寛永12年の大火の時に西尾隼人が住まわせた。その後、明治維新の際に再度久保市乙剣神社として鎮座する運びとなる。元々この久保神社だったわけです。
この西尾隼人とは一体誰なの?と思うかもしれませんが金澤古蹟志のこちらを参照いただけるとすぐに詳細がわかります。便利な時代になったもんだ。
↑ 夜歩くだけで全く雰囲気が異なる。幽玄美がある。
久保神社〜主計町〜ひがし茶屋
主計町
↑ 久保神社から奥、主計町の方へ進むと暗がり坂があります。こちらもまた素晴らしい幽玄美を見せてくれます。
もうこちらはおなじみの暗がり坂です。観光のパンフレット等でも見たことがあるのではないでしょうか。
↑この階段は惣構というお堀を下る階段なのです。階段の途中の階段の両側を見ると未だに惣構の跡が残っていることがわかります。是非一度見てみてください。
↑ この細い路地のこの雰囲気。幽玄美を感じます。明るい時よりも暗い時のほうがはるかに美を感じるから不思議です。
↑ こちらは「あかり坂」。「暗がり坂」とはこちらの「あかり坂」の反対という意味で付けられたものです。こちらのほうが言われてみれば明るいかと思いますが。。そういう意味ではなかったか。。
↓ 主計町 かずえまちとよみます。主計という名前はもともとこの地に前田家とつながりのあった富田主計家伝が住まわれていたことから由来する。そんな話もこちらから参照できるから便利!
主計町から今度はひがし茶屋の方へ歩きます。昼間は観光のお客さんでまじでいっぱいです。バスにのるだけで熱射病で倒れるのではないかと思うくらいの列を目にします。夜はそんなことないですね!
ひがし茶屋
こちらはひがし茶屋の広見周辺にある「自由軒」オムライスが昔から食べられているといいます。夜はまた違った雰囲気です。
↓ そしてこちらはひがし茶屋の広見。ここは昼間本当に多くのお客さんで溢れかえっていますが夜になると人影すらありません。
ひがし茶屋の歴史については本マガジンでも以前にまとめてありますのでそちらを参照していただけると色々と深く知ることができます。
一つ一つの風景が幽玄美を感じさせます。何か感じる。そんな気配もまた幽玄美の一つの楽しみ方です。
観音院〜梅の橋〜金沢裁判所
観音院
ひがし茶屋から歩いて10分位のところに観音院という寺があります。この観音院は卯辰山の寺院群にあることもありお墓も数多くあります。お盆のどまんなかにこんなお墓周りを歩くのは幽玄美を訪ねると行っても結構怖いなぁと正直思いながらも幽玄美を求めて歩きました。
やはり、なにかいる。気配を感じる。音を感じる。
↓ こちらは観音院への階段。
↓ 階段の途中、金沢駅方面の夜景がとても素晴らしいのです。昼間来ると分かるのですが、黒い瓦の屋根と近代的なビルと自然の共存。金沢のまた違った横顔を見ることができます。
↓ こちらのお地蔵さん。自動で電気がつくので気をつけてください。まじでビビります。
↓ そしてようやく観音院へ。
金沢三十三観音霊場巡りの一つとされております。金澤の人でも最近は全然知らない方も多いであろうこの金沢三十三観音霊場ですがちゃんとWikipediaにもまとめてありました。ホント便利な時代だな。長谷観音院に関しても金澤古蹟志のこちらを参照するとある程度 観音院がなにか訪ねることができます。
浅草でも行われる四万六千日は金沢でも文化としてあります。無病息災を願い唐黍をこちら観音院で購入し、よくお家で飾られている方もいらっしゃいます。
梅の橋
観音院を下り浅野川を渡ります。こちらの橋は梅の橋。
↓ 梅の橋を渡ったすぐのところに怪しい雰囲気の神社がありました。これは何なんだろう。気になります。
裁判所
兼六園側へ向かって歩きます。ようやくちょっとずつあかりが見えてきました。
急に近代的な建物が。二十一世紀美術館もそうですがこの新しいものと古いものの混在があたかも、この金沢の地で学んだ西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と重なるから面白い。
兼六園下・金沢城〜二十一世紀美術館〜柿木畠・片町
兼六園下・金沢城
↑ 兼六園下。大正十年台から昭和三十年台後半まで金沢市内で走っていた路面電車の車庫はこちらの兼六園下にありました。この兼六園下から石引方面への坂、尻垂坂での路面電車の事故がきっかけで少しずつこの路面電車廃線の流れとなっていきます。今はもうほぼ、面影はありません。
↑ 夜見る金沢城の入り口石川門はまた違った顔です。幽玄美感じます。こちらの石川門の過去の姿などはこちら 本マガジンの記事 からまた訪ねることができます。
↑ 石川門から二十一世紀美術館への路。意外と真夜中なのに人通りがある。
↓ いもり堀。明治四十三年に石川門の埋立工事の際に大きな事故がありました。その時の原因が大槻伝蔵ではないかという噂も経ちました。面白いものです。
二十一世紀美術館
↑ 昼間は観光客でごった返す二十一世紀美術館ですがこの時間になると人の気配すら感じません。感じるのは幽玄美。何かの気配。
↓ 二十一世紀美術館から後ろを振り向くと石浦神社が怪しくこちらを見ているような気がします。
柿木畠・片町
少しずつ眠らない町の方へ足を進めていきます。柿木畠・片町です。
↓ 金沢市役所から柿木畠へ抜ける路地。この辺は私の愛すべき郷土の泰斗 森田柿園が暮らした家の近くです。
↓ 人通りが増えると急に幽玄美を感じなくなるからほんとうに不思議です。幽玄美はやはり人の気配のないところにあるのかもしれません。
↓ 夜もAM1:00頃というのにまだやはり多くの人、タクシーを目にします。正直なんだかちょっと安心するのは気のせいでしょうか。
↓ 金沢のディープスポット「新天地」
↓ こんなデイープスポットにも北陸新幹線のミニ垂れ幕がありました!!場所が場所だけになんだか怪しい。。
最終目的地「金沢美食街」
そしてそして歩きに歩いて最終目的の「金沢美食街」にたどり着きました。夜遅くでもお店はあいている!よーーーし歩いたから沢山食べて飲むぞー!って真夜中に一体。
新天地より全然美食街のほうが雰囲気があります。この佇まいで良くもこの平成まで残っているなと思います。
焼肉Nobuさんでおつかれさん
そして最後の目的地である金沢美食街の焼肉Nobuさんで焼肉とお酒。もう幽玄美とか行って金沢の街をふらふら歩いていたことすらも忘れそうなくらい美味しいお肉を頂きました。
あーーーーー夜中に食べていいのかなーーー。
あーーーーー夜中に食べていいのかなーーー。
あーーーーー夜中に食べていいのかなーーー。
最後までお付き合いありがとうございましたー。
さいごに
いかがだったでしょうか「金沢の幽玄美を歩く〜2015お盆の夜のフォトジェニックツアー〜」
幽玄美とはなにかという踏み込んだ内容から始まりましたがなんとなくでも理解出来ましたでしょうか。夜景が綺麗。怪しいあの幽玄がたまらない。そういう方いらっしゃるのでは?
金沢の幽玄美フォトジェニックとうたってるだけあってなかなか良い撮影ポイントを抑えたのではないかと思っておりましたが、夜の街歩きの第一人者モリ川ヒロトーさんに言わせると今回のこのフォトジェニックツアーはおそらく邪道なのではないかと本マガジンではすでに反省しています。
秋に北陸ではJRのディスティネーションキャンペーンが行われるということですのでそれに合わせた形で、できれば読者の皆さんを交えたフォトジェニックツアーができれば最高だなと思っています。色々と段取りもあるのでうまくいくかわからないのですが、是非ツアーを開催の場合は参加していただけると幸いです。