兼六園と金沢城公園をつなぐ「百間堀・石川橋」の風景を追う地味な歴史探訪!しかし!知ってて損はない!観光がちょっと楽しくなるだろ!
北陸新幹線開通までそろそろ100日を切り東京から金沢まで2時間半という驚異的な時間で訪れることができまであとわずか。2015年3月14日開業ということなので春が北陸新幹線を連れてくるということになる。
金沢へ観光へ来たらどこへ行きますか?兼六園。そうでしょ! 兼六園には必ず行くのではないでしょうか? 石川県という県名よりも兼六園という名前の方が有名なのではないかと思うくらい。兼六園は金沢を代表する観光地となっています。
その兼六園につながっているのが金沢城址公園(かなざわじょうし)です。兼六園と金沢城址公園は現在つながっていて兼六園へ観光へ来たらそのまま金沢城址公園へ行くというのが一般的な観光なようです。
この兼六園と金沢城址公園を結ぶ「石川橋」ですが、ここは「百間堀」と言われ、現在は石川橋の下は道路ですが、かつては水の底だったのです。
観光にも必ず訪れるだろうし知ってて損はない!
かつての風景や歴史を少し紐解く
百間堀・石川橋の場所
↑この風景は金沢へ観光へくると必ず目にすることになると思います。なぜなら金沢観光に来たら必ず訪れる「兼六園の真横」むしろつながっているのです。
↓ そして今回お話しする場所はこの赤く書いてある場所「百間堀・石川橋」です。
この場所の歴史を紐解いて昔の風景を旅してみましょう。
古地図に見る石川橋と百間堀
300年〜400年前になると写真はもちろん存在していないので古地図よりこの百間堀の姿を追っていく。
延宝期(1673年〜1681年)
ほぼ一番古い金沢の姿を残しているのがこの延宝金沢図です。その図にもしっかりとこの百間堀のことが描かれています。
ご覧いただくろわかると思います。今は完全に埋め立てられていますが、延宝期はしっかりと水がはられています。そして、塞き止められお堀となっています。
この百間堀は前田利家入城前に城主、正確には 一向一揆の御山御坊を攻め落とした佐久間盛政がこの百間堀を掘ったとも言われています。 正確なことはまだわからないようです。
どんな時代でもこの百間堀と石川橋はほとんど姿を変えていないようです。何度も金沢という街は大火にあっているものの、お堀などはやはり火事があっても姿を変えない。むしろお堀は火事の時には活躍しますし。
元禄5年(1692年)
※ 諸国居城之図集(164枚の98) 金沢市立玉川図書館近世史料館 所蔵文書データベース 元禄5年(1692)
寛政時代(1840年ごろ)
※金府大絵図 寛政時代(1840年ごろ)
天保元年(1830年)
※天保元年「御城中壱分碁絵図」横山家
加賀藩年中行事図絵
昭和の作品ではあるが非常に興味深い資料がある。昭和7年に書かれた巌 如春の「加賀藩年中行事図絵」である。金沢大学所蔵貴重資料リポジトリによるとこの資料は
近世の加賀藩における1年間の行事や風俗について描いた絵図。全4帖の4帖目。作者の巌如春(1868-1940)は加賀藩政時代の風俗や大名の行列図など歴史的考証を踏まえた絵を描くことを得意とした。本資料は、郷土教育と女子教育の教材として石川女子師範学校から如春に依頼、作成された。
資料としては新しいものであるがこの明治期前の百間堀・石川橋の姿を知るにあたって非常に貴重な資料といえる。
※ イラスト: 「石川門」加賀藩年中行事図絵 巌如春 昭和7年(1932年)6月
※ イラスト:「石川門2」加賀藩年中行事図絵 巌如春 昭和7年(1932年)6月
明治21年発行の石川県下商工便覧
明治21年に発行の「石川県下商工便覧」には百間堀が描かれている。この「石川県下商工便覧」は石川県の様々な場所をイラストで描かれており当時石川県を知るには非常に興味深い資料の1つです。片町や香林坊、尾張町、東新地、西新地など未だに残る建物もこの「石川県下商工便覧」には掲載されている貴重な資料です。
※ イラスト:石川県下商工便覧 川崎源太郎 著 竜泉堂 明治21年
明治時代20年頃〜 写真で姿を残す百間堀
明治期になると写真で少しずつこの百間堀の姿をうかがうことが出来るようになってくる。その写真による初見はおよそ明治20年である。百間堀には古地図の通り百間堀には水がはられている。
明治20年代の百間堀と石川門
※ 写真:「百間堀と石川門・明治20年代」20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
明治25年(1892年)の百間堀
※ 写真:「百間堀と本丸跡・明治25年」明治25年(1892年) 20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
明治20年頃の写真も綺麗にお堀に水が入っていることが伺える。この百間堀の埋め立てはこの写真のあと、明治30年くらいから論議されることとなる。
明治40年の百間堀と少女
※ 写真:「百間堀と少女・1907年(明治40年)」20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
明治40年 本丸南側(いもり堀前) 石垣崩壊事故
日露戦争後の明治39年には百間堀の埋め立ての話が具現化していくわけだが、注目すべきは、明治40年(1907年) 6月8日夕方に 本丸南側の石垣が幅65m、高さ19mにわたって崩壊 するという事故があったということである。梅雨であったために雨で石垣が緩んだのだろうか?場所は写真を見る限り現在の「いもり堀」周辺、崩壊は辰巳櫓辺りまで達していたようです。ポール・ボキューズを背にして正面。
崩壊発生した場所の上には「戦没者霊園(日露戦争)」と「午砲台(正午を告げる大砲)」の中間だっとと書かれてあり、その幅は幅80メートルにも及んだ。この石垣の崩壊事故により、死者一名、重症一名が出てしまったのである。
当時の北国新聞によるとこの原因と修復に関して様々な事を書いている。この崩壊の原因は2週間前にはじまった「いもり堀」の埋立工事にあったという。陸軍が被服庫を建設するために堀を埋め立てようとして石垣を崩してしまったという。その他、崩壊の場所が加賀騒動の主人公であった大槻伝蔵の屋敷近くだったということもあり、伝蔵呪いではないかといううさわすら持ち上がった。しかし、結局は前途のように「いもり堀」の埋立工事の際の不手際だったようだ。それほどこの石垣は絶妙なバランス建っているということなのだろう。
この修復方法も莫大な修復費がかかるということで論議になったようです。最終的には石垣の上の方を削って全体を低くし安定させ、石垣をしっかりと二段組みにして中段に樹木を植えて崩壊を防ぐこととなった。「いもり堀」の石垣がこのときの姿となっている。
※ 写真:「金沢城本丸石垣の崩壊・1907年(明治40年)」 20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
※ 参考:北國新聞夕刊 2000年07月8日 「築城金沢・匠の心」
※ 写真:現在の本丸南の石垣(Google Street Viewより)
この時の事故の教訓、石垣を崩さず慎重にと、百間堀の埋め立てに多少影響は出ているだろうと思います。
明治時代43年 百間堀の埋め立て着工、翌年明治44年完成
明治43年から道路化工事が着工される。施工中の百間堀埋立竣工は明治44年。当時は大型機械もなく全ては手作業によって行われ沢山の作業員が現場に駆り出された。写真の左の奥に見える建物は第九師団の建物。北国新聞によると外見は江戸時代のままだが城内は軍関係の施設がびっしりと並んでいたという。
※ 写真:「石川橋の建設工事・1911年(明治44年)」20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部 / 「石川橋の築造工事(明治44年)」愛蔵版ふるさと写真館 北国新聞創刊115年記念
この百間堀の埋め立て・道路化事業にともなって石川門と兼六園をつなぐ高梁(たかはし)工事も進められ、アーチ型の鉄筋コンクリート「石川橋」も完成した。
※ 写真:「百間堀道路の開通式・1911年(明治44年)」20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
明治44年6月に百間堀の埋立工事は完了。ほぼ現在と変わらない風景となる。
北国新聞によると開通式は盛大に行われ、開通した道路は幅11m,長さ576mで総工費はおよそ3万2070円以上をかけて完成した。開通式には2万人の市民が詰めかけたということ。
※ 写真: 「百間堀」推定1911年(明治44年) 写真と地図て?みる 金沢のいまむかし 田中善男
大正、昭和の百間堀・石川橋
大正8年に金沢市内を縦横無尽に市内電車が通るようになるのだが、大正の面影を残す資料はなかなか見つけることが出来なかった。
↑大正13年9月に百間堀前あたりで金沢市が初めて消防自動車ポンプを導入した時の写真。大正初期の大正博覧会にイギリスメリーウエザー社とドイツのベンツ社が出品したのをきっかけに横浜市と名古屋市が一台ずつ購入したのが日本への初上陸だったとある。
※ 写真:「昭和初期頃の石川橋から見る石川門」写真と地図て?みる 金沢のいまむかし 田中善男
昭和42年に市電が廃止されたあとはバスと自動車が行き交う今と変わらない道路となった。皆さんも御存知であろうがこの金沢城址の中には金沢大学が、そして現在の姿の金沢城址公園と移り変わていくのである。
この百間堀にもかつて金沢を縦横無尽に走っていた市電が通っていました。この市電についてはいつか記事にしたいと思っていますのでお楽しみに。
現在の百間堀・石川橋
春〜秋
冬
現在の石川橋から石川門を眺めた風景。観光で兼六編へ来た時は必ず目にする場所でしょう。
この石川門の歴史を知り、冬の百間堀越しに石川門を見たとき、涙がでるほど美しい。そう思いました。かつてはドイツの建築家ブルーノ・タウトは京都の桂離宮を見て同じことを言ったと言われています。
美しさというものは一目惚れのような直感的な美しさ、そして深く知れば知るほど気持ちがわかり尊さが分かるという深い慈愛のような美しさがあるのではないかと思いました。深く深く尊く美しい。金沢市民としてこの風景を大切にしたい。と文章を書きながら思ったのでした。
↑ 現在の百間堀
さいごに
いかがだったでしょうか?「兼六園と金沢城址公園をつなぐ「百間堀・石川橋」の風景を追う地味な歴史探訪!しかし!知ってて損はない!観光がちょっと楽しくなるだろ!」
延宝期(1673年〜)から平成26年まで駆け足でどのような風景だったかを見てきたわけですが。百間堀は300年前から水が張ってあり、それが明治43年〜44年の埋立工事により今のようにアーチ状の石川橋が百間堀にかかり、その下が道路になって市電が走り、今のような風景・使われ方になりました。
今子の時代を生きると言うことは幸いにも多くの愛すべき人に会うことができる。こうやって歴史をしることで更に多くの愛すべき人に出会うことができるのもまた、歴史を探求する魅力ではないかと思います。
この場所に観光として訪れた時にはこの記事のことを思い出して!
実際に見る風景に厚みができ、より楽しい観光になることを期待しています。
※ 文書の出典などには注意を払っておりますが、万が一間違いなどがありましたらご指摘ください。よろしくお願い致します。
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