みなさんこんにちは。
金沢の観光も北陸新幹線の開業から二年目になると多少落ち着いてきているように思います。金沢市内の混雑ぶりもそこまでではないように思います。とはいえ、金沢市内にはお昼ごはんを満足に海鮮物を食べるところがそもそも少ないという問題もあるのですが、近江町市場の海鮮丼をやっぱり食べたいという行列もまだまだ続いているようです。
本マガジン的には「二度目の金沢」 という記事を紹介しているように、単純に金沢の雰囲気を味わいたい、というだけではなくさらに一歩踏み込んだ深さのある観光を提案していきたいと思っています。一度ではわからない、二度来てもわからない、地元に住んでいるけれども分からない。でもなんだか好き。人生において意味のあるというものはそういう現在での理解を越えた感性を受け止めることではないかと思っているためです。それが芸術だったりするのもまたすばらしいのではないかと思っています。
【二度目の金沢】金沢市民が脳から血が出るくらい考えた二度目の金沢の楽しみ方!二度目は一人で来い 〜これでも中級編〜
二度目の金沢。金沢市民が真剣に考えてみました。金沢は一人できて自分を深めてほしい。本マガジンではそのように考えています。金沢という場所は鈴木大拙や西田幾多郎など日本の哲学の基礎を築いた人たちが出会い深めたところでもあります。ここ金沢は日本哲学の故郷といっても過言ではないのではないか?金沢で自分自身を深める二度目の金沢をご紹介します。( 2016年6月1日公開 / 9年 )
今回は知的好奇心からの入り口から深い金沢を体感してもらえればと思い金沢の古地図散歩「本多町から桜橋まで」をお届けしたいと思います。
と思います。観光客の方にももちろん、地元の方にも金沢の楽しみ方を知ってもらうことができれば本望です。というわけで長い前置きもここまでにはじまりはじまり。
そもそも古地図散歩は楽しいのか?
金沢は街歩きするのが面白い。そういう地元の方から歴史、郷土研究の方がいらっしゃいます。それは様々な理由はあると思いますが長年この金沢の街の姿、特に道路に変化がないというところにあるのではないかと思っています。だからこそ古地図を手に歩くという面白さがこの金沢でできるわけです。
2016年3月雑誌「男の隠れ家」金沢の企画
その金沢の町を古地図とともに歩くという雑誌の企画がありました。それは2016年の3月の「男の隠れ家」です。
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「加賀百万石と3つ星街道の旅」の企画で古地図をベースに金沢の町を歩くという企画なのです!
といろいろと読んでみたのですが、マニアックなことにしか興味のない変態マガジンの編集部からしたら、いまいち物足りなさを感じたりしましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m おそらく、古地図と現代を合わせて見てもいまいち分からず、まいどさんのガイドの話が書かれています。確かに古地図を見たところでよく分からんのですが、現在地と過去の場所がわかるだけでなんとなくワクワクする!!という感覚すっごいわかりますが、それ以上に追求するのがなかなか難しいのだと思います。
金沢市プロモーション推進課 金沢古地図めぐり(金沢別院・寺町エリア、東山・長町・石引エリア)
金沢市も行政として「金沢古地図めぐり(金沢別院・寺町エリア、東山・長町・石引エリア)」という古地図マップを発刊しています。
本マガジンでもやりたいことはまさにこういうことなのです!!!! しかし、現在の場所と昔の場所と一致させることを目的とした古地図めぐりであるということがこのパンフレットの目的のように思いました。まったくその通りなのですがマニアックなことにしか興味のない変態マガジンの編集部からしたら、いまいち物足りなさを感じたりしましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
変態マガジンとしてこの古地図の物足りなさは一体何なんだと思いながら考えてみました。どうやったら古地図歩きの面白さも見つけることができるのかということを本マガジンでは真剣に考えてみました。
本マガジンが提案する古地図散歩の楽しみ方
そもそも古地図と現代の楽しみ方はまず、
ではないかと。これはとにかく大前提。
しかし、いくつか問題もあります。まず、様々な古地図をとらめっこしながら調べていくと分かるのですが、
例えば金沢の現在の枝町付近に住まわれていた「九里 覚右衛門」の屋敷ですが、
現在は跡形もなく、元住まいを探すのは面白いのですが、その人物の足跡や人生を知り、楽しむのは非常にハードルが高い。調べる術はすぐに見つかるのですが古地図を片手に散歩し、現場でその楽しさはすぐに分からない。わかるまで時間がかかるのです。
他の古地図の説明でももちろん触れていますがまず、「金沢の道は歴史の生き証人」である。現在確認できるのは、寛文の地図からほとんど道の多くは変わっていないのが金沢の町の道路です。要するに400年以上も変わっていないのです。
今回紹介する本多町〜桜橋の間も大きく変わった一つです。金沢の歴史の生き証人の新旧の道を歩くことで
そして本マガジンが提案したい古地図の楽しみ方は
繰り返しになりますが、金沢の道の多くは400年も変わっていません。だからこそ、変化のある箇所を見つけ出し、昔の金沢の人が見た風景を味わうことこそ本マガジンが提案する古地図の楽しみ方なのです。
例えば今回の本多町〜桜橋の変化はこういうことです。
今回使う金沢の古地図 「金府大絵図(1843年天保14年)」
今回利用する金沢の古地図は「金府大絵図(1843年天保14年)」 です。こちらは金沢市立玉川図書館蔵で、「太陽コレクション 城下町地図散歩1 金沢・北陸の城下町 平凡社刊」、「近世絵図地図資料集成 第1期 (第9巻)若狭/越前/加賀・能登・越中 科学書院」 などで手にすることが出来ます。 この金府大絵図では?家???名と寺社名もかなり詳細に書かれています。
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古地図歩きのスタート地点 本多町(ほんだまち)
本多町。このように書いて本多町(ほんだまち)と読みます。この本多町は皆さんご存知の金沢21世紀美術館の正面入口から兼六園の逆方面に歩くとすぐです。この本多町の名前の由来は加賀藩の老臣本多安房守の下屋敷があったことに由来します。 丁寧にも本多町の説明のWikipediaがありました。 [ 本多町のWikipediaの説明 ]
そもそも本多町の説明で登場する
って方多いと思います。それでいいのです!
この安房守(あわのかみ)というのは奈良時代に作られた律令政治の時の官職名(武家官位)なのです。もしかしたらご存知かもしれませんが、吉良上野介(きらこうずけのすけ) の 上野介(こうずけのすけ)も官職の一つです。この安房守は明治維新で活躍する勝海舟も同じように安房守、勝安房守として正式に任命されていたようです。この官職名(武家官位)は朝廷が任命するもので国司、〜守、〜介などがあります。自分でかってに名乗ったりということもあったようですが、本多安房守というのは朝廷からも任命された偉い重要人物です。
この本多政重は加賀八家の筆頭元老でして、徳川家の老中であった本多正信を父とした徳川家の名門の出。ですが、波乱万丈の人生で大谷吉継や宇喜多秀家、上杉景勝、名前を直江大和守政重と名乗ったりとフラフラと放浪癖があっただけではなくやはり徳川家の名門ということなのだろう。どこへいっても受け入れられているように思う。最終的には加賀藩に来たところで利長は政重に三万石を与える。やはり徳川家の名門だと思う。本多政重の話だけでも記事がかけちゃいそうなくらいなのです。
とにかく徳川名門から来た偉い人!ということで今回はいいと思います。今回は古地図散歩がメインです! すいませんm(_ _)m
↑のように寛文金沢図でも本多安房守の名前を見つけることが出来ます。その本多安房守の下屋敷があったことからこの本多町の名前はつけられました。 本多安房守の詳細については本多政重のWikipediaを御覧ください。 [ 本多政重 (ほんだまさしげ) ]
金沢古地図散歩スタート
今回古地図散歩するのは金沢21世紀美術館目の前の本多町から桜橋です。1〜15の番号通りに今回はしっかりと歩いてきましたー!
この点線部分が現在の大通りです。本多町のMROから犀川まで一本の大通り、
ポイント1 本多町(ほんだまち)MROから
もう金沢市民でありましたらこの風景はおなじみです。MROの前やろ? 北陸電力の前やろ? 県高の近くやろ? 彌三郎の近くやろ? そうです! ここを通る度に謎の右に斜めに曲がっている大通り。これは古地図を見ながら歩くと分かるのですが、もともとはここは大通りではなく小路で「うどんそば処清水」の前の小路を入っていきます。
昔はこの小路を一般的には通っていたのではないかと思います。
ヤングドライが1Fにある変形したこのビルは古地図と比較するとその理由がちょっとだけ分かる気がします。
ポイント2 うどんそば処清水の横を直進
うどんそば処清水の横の小路を直進します。
突き当りまで進みます。
突き当りには小地図には「下」と書かれています。こちらは本多家の下屋敷の「下」です。やはり本多家の屋敷だらけであるということがよくわかります。
ポイント3 駐車場を左折
この辺り一帯は完全に本多家の下屋敷ですね。なにも跡形も残っておらずです。
ポイント4 下屋敷跡を直進
下屋敷跡の痕跡がないかいろいろと探してみました。
ううむ。下屋敷跡の一部かなぁ。。わかりませんでした。すいません。
ポイント5 【重要】 橋を越えた先に慶覚寺が姿を現す
この場所まで来た時に結構個人的にはハッとしたので重要!とさせてもらいました。
風景を見たら分かりますでしょうか? 小路の正面に慶覚寺が現れます。もちろん古地図にもばっちり描かれています。
1.慶覚寺
本多町から犀川までの大通りがないときはこの風景が当たり前だったのではないか。そう思うことがこの古地図歩きの醍醐味ではないだろうかと思うのです。今は車で大通りを通るだけでお寺の存在もほぼ意識することはない。しかし、この古地図から見つけ出したルートはまた違った事を考えさせてくれるから面白いのです。
2.橋から勘太郎川を眺める
こちらの橋がかかっているのは勘太郎川です。
金沢市民も聞いたことがないかもしれません。でもみなさんが知っているのは”思案橋” この思案橋は勘太郎川にかかっています。え?まじか?というかもしれませんが、まじです。
実は勘太郎川と源太郎川があります。
勘太郎川の上流は笠舞のパレット(元の赤坂プラザ)の裏辺りの「大清水(おおしょうず)」から始まり、鱗町付近まで流れています。そして、現太郎川は天然の川で、東外惣構でしてその始まりは金沢大学の医学部の北西辺りから始まり橋場町周辺の浅野川までを流れています。意外と知らない方も多いように思います。その勘太郎川を眺めることが出来ます。
この勘太郎川の話をし始めると長くなってしまうので今回はここまでです。
そして、重要なのは「旧百姓町」その境目をこのポイントでみることが出来ます。
右折する向こう側、橋を渡った向こうが百姓町でした。勘太郎川が町の境目になっていたこともわかります。
今ではこの百姓町という名前は無いのですが、金沢市の説明によると「もと石川郡石浦村の農地であったが、江戸時代前期(寛永8年以前)に町立てされた。農民が住んでいた町ということからこの名がついた。」そして金澤古蹟志でも百姓町のことが詳しく書かれています。 金澤古蹟志の百姓町の頁その1, その2
ポイント6 勘太郎川の上の暗渠
この周辺は先程の勘太郎川の暗渠(あんきょ)の上を歩くことになります。こんなところに勘太郎川が流れているなんて。
ポイント7 犀川大通を渡る
この細い路地を通り犀川方面へ向かいます。
通ると分かるのですが、犀川大通に突き当たります。しかし、小地図では大通り、道がありません。
そうなのです。この犀川大通は明治〜昭和にかけて整備されていったのでこの古地図の時代ではまだ通りがなかったのです。
ポイント8 犀川大通りを渡る
この写真、犀川大通を渡った右手に見えるのは「金沢県税事務所」でして、「金沢県」の文字の並びをみることができる場所です。最初見つけた時は間違いかと思いました。
実際に古地図散歩するときは必ず横断歩道をわたってください!
ポイント9 金沢県税事務所の横を直進
↑ この写真の右隅の方に見えるのは、鞍月用水です。鞍月用水は金沢県税事務所の前辺りを通り、上流へ行くといしかわ子ども交流センターまで続きます。
この辺りは鞍月用水、勘太郎川が行き交っています。鱗町の交差点辺りでその2つが交わっています。かつてはこの辺りは合流地点で流れも早く、詳しく調べてはいませんが水難事故も多くあったのでしょう。その慰めのためでしょう、鱗町交差点に鱗町子守川股地蔵尊があります。この辺の話はまた機会を見てできればと思っています。
ポイント10 小路突き当りを右折
細い路地を進みます。昔の大通りは三間(一間はおよそ1.818m)とか三間二尺だとか5メートルから6メートルくらいの幅だとか、江戸の五街道の幅は二間だったなどと言われますが、小路はどのくらいが一般的だったのでしょうか。長町の武家屋敷の道の幅が一般的な小路だったという話も耳にしたことがあります。
ポイント11 名願寺前を左折
名願寺(めいがんじ)
この名願寺はあの加賀騒動の中心人物である大槻伝蔵と深い縁があると言われています。
金澤古蹟志より参照するとこの名願寺は大槻伝蔵の旦那寺であり、寺の鐘は大槻伝蔵の寄贈のものであると書かれています。大槻伝蔵の養父の長兵衛はこの名願寺の門徒出会ったということから大槻伝蔵も多くの付き合いがあったのではないかと思われます。そう思うだけでこの鐘の見方が変わってくるから不思議です。 [ 金澤古蹟志より ]
そんな疑問にも本マガジンはお応えします。
金沢史上最大の大惨事「愛をも焼きつくした」宝暦の大火!ブラタモリでは金沢はどう守られたか?だったが「守りきれなかった金沢」を紹介します!
ブラタモリ金沢が放送されました。そのタイトルは「加賀百万石はどう守られたか?」でしたが、斜め上を行く本マガジンでは「守りきれなかった金沢」をご紹介します!ややこしい加賀騒動の話もざっくりわかりやすくまとめました!異常金沢観光情報を知るとより観光が深まるはずです!( 2015年4月27日公開 / 10年 )
この宝暦の大火の頁に大槻伝蔵の事を紹介しています。 [ はじまりは加賀騒動からの項目を参照 ]
そんな名願寺を通過して桜橋を目指しましょう。そろそろ架橋です。
ポイント12 謎の広見
名願寺を背に桜橋の方向に前進するとちょっと広くなった場所に出ます。このような場所を広見(ひろみ)と言います。
しかし、この広見自体の文献も少なく、広見という言葉の由来についても意外と新しいものなのではないか?と私は思っています。その利用用途も島村昇「金沢の家並-近代文学にみる原風景」 1989年 鹿島出版会 によると伏兵を配置するための戦略的役割だとか、荷車の回転する場所だとか、火消しの集結地点であるとか、藩の高札場だったとか様々な話があるようです。しかし面白いことにこの広見の語源に関してや歴史的資料は見つかっていない。意外と新しいものなのではないか?と私は思っています。
この広見はここだけではなく、金沢市内にはかなり多く存在します。 馬場 先恵子 「金沢城下の広見の起源と配置について」 の中に広見の数は確認できるところで101箇所。その確認方法は「金沢市史 資料編18 絵図・地図」 の中の地図を使いデジタルでピクセルの数で算出とかかれて書かれているがどの年代のどの地図かいまいち分からなかった。また、地図は現代と違って結構不正確なので広見の数はあまり正確とはいえないだろう。しかし、図のように数多くの広見があったことには違いなさそうです。
ポイント13
古地図散歩もそろそろ佳境に近づいてきました。この突き当りを右折、すると桜橋に出ます。
ポイント14 衝撃の桜橋へ
直進するとようやく桜橋に
もう、お分かりの方でしたら先程から登場しています古地図を見るとお分かりになるのですが。
桜橋の場所は現在の場所とは異なっております。この名前もなのです。
桜橋について(少しだけ)
もともとこの桜橋というのは江戸時代後期までは「渡し」という簡易的な橋でした。今回利用した古地図はその渡しであると思います。
寛文7年金沢図 1667年 には全く描かれていない。
加陽金城下図 文政6年 1823年 には渡し船が描かれている。
今回利用した古地図 金府大絵図 天保4年 1843年 には「渡し」が描かれている。
時代は明治、明治24年(1891年)に今までの「渡し」が木造の橋として掛かったと言われています。この時の橋の名前は新橋と言われていました。そして明治30年(1897年)今の陸上自衛隊の場所(野村)に歩兵第三十五連隊が設置され、交通量が増えたことから橋を改良。この時に橋の名前が新橋から桜橋に変更されます。
明治43年(1910年)に架け替え工事が行われています。その時におそらく今の桜橋に架け替えられたのではないかと思われます(おそらくです。現在調査中)。桜橋の詳細についてはまた追って詳しく記事にしたいと思っています。今回は古地図歩きの企画でした!!
さいごに
さて、いかがだったでしょうか? 「金沢古地図散歩「本多町から桜橋まで」金沢21世紀美術館に遊びに来た時には是非やってみて!絶対疲れるから!!」 従来面白く無いかもしれない。。と思っていた古地図散歩が少しでも面白いかも!!と思っていただけましたでしょうか?
そのように思っていただけたのであればこの企画は大成功です! そうでない方がいらっしゃいましたらもっと努力が必要ということですね(;_;) 頑張ります。
最初にも述べましたが、古地図散歩、古地図歩きの楽しみは最終的にはそこに住んでいた人物の一生を楽しんだりするのが面白いのかもしれませんが
これこそが本当の古地図の楽しみ方ではないだろうか。本マガジンはそう提案させていただきたいのです。
一番印象深いのはこの細い路地の先に姿を表した慶覚寺です。この風景をかつての金沢人は見つめていたのではないだろうか。手前に見える橋とこの慶覚寺の間が百姓町という町だった。そこにいた人たちを想像するだけで気持ちが完全にタイムスリップするのです。
古地図を片手に金沢の町を歩いてみてはどうでしょうか?また違った金沢の風景を見つけることができるかもしれません。
今回使った古地図はこちらから
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