金沢県?間違ってる?時代が違うだけで正解です!金沢県と石川県の時代の流れを正しく知って石川県の名称由来の模範解答教えます。
石川県。え?どこ?
石川県という名前より金沢という名前の方が皆さんに知られているようで、意図的かどうかわかりませんが笑 テレビでも「金沢県」と間違えて表示されたなどという話も聞きますよね。
金沢のことをよく知り、金沢を愛すあなただったら、金沢県と聞いてどう答えますか?
「それは石川県の間違いですよ。石川県金沢市ですよ。」
そんな金沢ガチ勢としては歯切れの悪い解答に対しての模範解答を示そうと思い、石川県の名称の由来、そしてどのような経緯でこの石川県となったのかの歴史を紐解こうという企画です。
という史上初の企画となっております。
加賀藩から金沢県、美川県?そして、石川県へ。廃藩置県と石川県。
まず、加賀藩の話から始めないといけません。加賀藩は前田利家の入城から始まります。
賤ヶ岳の戦いと前田利家の入城
もともとこの石川県の地は佐久間盛政が納めていましたが、天正11年(1583年)信長の後継者をめぐって柴田勝家(佐久間盛政、前田利家もこちら側)と秀吉が賤ヶ岳(しずがたけ, 滋賀県長浜市)で戦いが始まります。
その際、初め柴田勝家側についていた前田利家はいきなり戦線離脱する(美濃返し)。なぜ利家は撤退したのかという話で諸説あるのですが、秀吉とはかつてからの親友、そして柴田勝家とは主従関係にあり、このややこしい関係に耐えかねたというのが有力と言われている。中立的な立場をとり結局最終的には秀吉側につくという結果となる。先見性があるというのか中途半端というかなんというか。
その後、利家は今までの能登に加え、金沢(尾山)を任せられることとなり、入城となるのである。賤ヶ岳の戦いと同じ天正11年(1583年)6月の入城とされている。この入場を記念して現在の金沢百万石祭りが行われている(土日開催ということで意味ある日付ではなく年々異なる日付で行われるのですが)
分かりやすく書くと
柴田勝栄軍(佐久間盛政・前田利家など) → 秀吉と激突(賤が岳の戦い) → 前田利家撤退で中立 → 柴田勝家軍敗北 → 秀吉側へ → 秀吉に金沢の地を任せられる
という流れです。
大政奉還と廃藩置県 「金沢県の設置」と美川県?石川県へ
300年近い江戸時代を経て、時代は一気に江戸後期へ移ります。廃藩置県は何度も繰り返され現在の姿になっていくのですが、初期の廃藩置県では
明治4年(1871年)7月14日
・金沢県:能登半島4郡の大部分、石川郡、能美郡、河北郡、砺波郡、射水郡、新川郡
・大聖寺県:江沼郡、能美郡一部
・富山県:婦負郡、新川郡一部
この廃藩置県とともに加賀の前田家はこの廃藩置県で東京の地へ去ることになります。同じく大聖寺藩の藩主であった前田利鬯(まえだとしか) も東京へ。
分かりますでしょうか。初回の明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県では石川県ではなく金沢県でした! 現在の富山県砺波、富山県射水、富山県新川郡も初期の金沢県だったのです。
しかし!この金沢県という名前は明治4年(1871年)7月14日〜明治5年(1872年)2月2日までのわずが半年だけの名前となります。翌年にも再度廃藩置県が行われ、その時には金沢県の名前が消滅してしまいます。残念。。
明治5年(1872年)2月2日
・石川県:石川郡、河北郡、能美郡大部分
・七尾県:能登半島4郡、射水郡
・新川県:砺波郡、新川郡、婦負郡
として行われました。
この廃藩置県実施に関して、金沢県大参事 内田政風(うちだまさかぜ, 薩摩藩藩士, 金沢県の知事) は 金沢県庁の場所を金沢から美川の地へ移すことを決定する。 この話は結構石川県民でご存知の方は多くいるのではないかと思います。
公式的な理由は明治5年(1872年)2月2日の廃藩置県で能登の多くの部分が「七尾県」となるため、加賀全域を含めた金沢県の県庁が金沢ではがあまりに北だろ?大聖寺から金沢へ来るのは遠いだろ?七尾県あるし、能登から金沢へ来ることはないだろ?という行政上不便だといういうことから移転したとのこと。
ようやくここで初めて「石川県」という名前が登場する。美川に移った県庁の場所が石川郡だったということから「石川県」になる。この石川郡からきた名称「石川県」の由来が後々説明するのですが、まだ名前の由来が推測、推測で面白いのです。
調べて分かったのだが 内田政風は金沢県庁を美川へ移転させる際に「美川県」にすると申請していました(明治3年12月) もしかしたら美川県になっていた可能性もあったということです。
この美川の名前は美しい川 = 手取川が近くにあるからという由来ではなく左岸の能美郡港村(のみぐんみなとむら)と右岸の石川郡本吉(もとよし)町の名前それぞれの郡の1文字ずつをとって「美川」とつけられたものなのです。
ここでなぜ金沢県にならなかったか。とても気になるところです。石川郡に移ったからといっても文化・商業の中心は金沢だったはずです。この辺の謎にいつかじっくりと追ってみたいと思っていますが、そのヒントとして江戸〜明治の日本のジャーナリスト宮武外骨(にやたけがいこつ)によると「新政府は朝敵や日和見藩には山や川の名前、もしくは郡名をあて、旧藩時代の名称や城下名を採用させなかった」という話があるので金沢県にならなかったというのもこの辺に理由があるのかもしれません。
現在の美川の石川県庁跡地ですが、藤塚神社(石川県白山市美川南町ヌ167) の石垣横の坂道を下りたところに立っていたらしいが、2002年4月に「石川ルーツ交流館」が設立されるに伴って若干移動しルーツ交流館内に移されたとのこと。
場所が移ったら意味がないじゃないかというのは個人的な意見ですが。。
明治9年(1876年)4月18日, 明治9年(1876年)8月21日
石川県という県は現在の石川県、富山県全域を含めて石川県となっていました。その後、福井県の一部分も含んで石川県と。何度も廃藩置県が行われ徐々に現在の石川県、富山県、福井県の形になっていく。
明治14年(1881年)2月7日, 明治16年(1883年)5月9日
ようやく今の形になってきました。明治16年5月9日にようやく今と同じ北陸の姿になるのです。
(棒) をつけても構わないのですが、胸を張ってドヤ顔で言って欲しいのです。
と! 通常のブログだとここで終了なのですが
もうしばらくお楽しみいただきます。
※ 図「石川県の歴史」 山川出版 2000年
※ 写真 「美川の石川県庁1872年(明治5年)」 20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜 能登印刷出版部
※ 写真 「内田政風」 石川県史 第四編 1931年
※ 参考 「書府太郎 石川県大百科事典 (上巻)」 北国新聞社
※ 参考 「角川日本地名大辞典 石川県」 角川書店
※ 参考 「都道府県名と国名の起源」 古今書院 吉崎正松 著
そもそも「石川県」石川の名前の起源は一体どこから?きたのか?
石川という名前は手取川の別名だろ?そんなの知ってる知ってる。
そういう石川県民は多いのではないでしょうか。ガチの石川県民からして、その回答は甘すぎる!笑 この石川という名前の起源はまだしっかりと結論は出ていないのが実際ですが、石川という名前がどこからどのようについてきたのかをしっかりと説明しますので是非お楽しみください。
イシカワの所見は平安時代の漢字辞典(笑)
この「石川」という名称の所見は平安時代中期に作られた漢字辞書に見られます。その漢字辞典の名前は「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう) という辞典 (和名抄とも呼ぶようです) の中にあります。石川の漢字ではなく
と記述されている。この和名類聚抄は 国立国会図書館のデジタルコレクション でも見ることができるはず!ですので是非探してみてください。
この和名類聚抄をちょっと説明しておくと承平年間(931年-938年)に勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂したものと言われている。
この漢字辞典が所見と言われています。
石川郡の存在
石川県というなまえの石川は先に書いたように 美川に県庁を写した時にその場所が石川郡だったことから石川県となった と書きましたが、この石川郡は平安時代の初め弘仁十四年(824年)加賀国が越前国より分立した年に、加賀郡の南半を割いて新たに設置されたものであると言われています。
ここで気づくのは、和名類聚抄の編纂と石川郡設置の時期がずれているということですが、和名類聚抄は漢字辞書で実際に地名は先立って存在していたということでしょう。
石川郡の由来
ここから本題に入っていきます。この石川という名前は一体どこからきたのか。
まず、石川県の郷土研究の泰斗の一人 森田平次の「加賀志徴」には石川郡の石川は何に基づいているのかという話について非常に興味深いことを述べている。金沢市民ならご存知である金沢市古府町(こぶまち)、金沢の産業展示館の近くに広く位置するのですが、この金沢市古府町(石川郡古府村)はかつて「石川」という名前であったという。
しかも、金沢市古府町にはかつての石川郡の郡府であって、この「郡府」という名称は「国府」に対して「小府」という例が見られるとのことから、「小府」の名が古府になった ものではないかと推測される。そして、その古い名前であった「石川」の名が郡名に用いられたのではないかというのである。
確かにこの金沢市古府町周辺には犀川・伏見川が流れており砂利や礫(れき)が多いことからも、石川の名前になり村の名前が石川になったのではないかという歴史的な理由による森田平次の説明。
とはいえ個人的に思うのは、石川郡というのは非常に広く犀川とは違う水系の白山信仰などとも結びついていたり、古府はもとは「石川」という名前だったという事実や、犀川沿いだという地理的理由も考慮しても金沢市の古府となかなか結びつきにくいというのが私の感想です。ただ、平安時代からの古府にあった郡府の役割などを研究しないことにはやはり答えは出ないのは実際だろう。難しいところだ。
その他、村岡檪斎(むらおか れきさい)の「日本地理志料」には、江沼臣、石川朝臣とは共に武内宿ねぎの後であるから、石川郡は石川氏の住んでいた地であろう。という説もあるらしいがいまいち深く調査はできていない。
「石川県史」の著者 泰斗 日置謙(へきけん)の見解
日置謙という石川県郷土史ではなくてはならない存在の泰斗がいます。そもそも日置謙これで「へきけん」とはなかなか読めません笑 この日置謙は石川県史など石川県の郷土史には欠かせない研究を残しています。
さて、その
したからすごいものだ。日置謙は村岡氏の石川氏の話、森田の説も否定し 石川郡の名はその郡境にあった比楽河(手取川)の川底の砂利・礫の様子より名付けられたという手取川説 をとったのである。
文献重視の私のやり方ではなんとも強引なとか色々と思うところがあるのですが、白山信仰が手取川上流であるということや、犀川、浅野川とは違い「石川」の名にふさわしい川は手取川であるというのは確かであると正直なところは思う。
忘れてはいけないのが「石川」の2文字の起源ではなく「石川県」という名称の限定的な確定要因としてはふさわしいだろうと思います。
・石川郡に県庁が移転したので「石川県」
・石川の名にふさわしい手取川が美川の石川県庁に流れていた
・宮武外骨の「新政府は朝敵や日和見藩には山や川の名前、もしくは郡名をあて、旧藩時代の名称や城下名を採用させなかった」という話
などなどいろいろなことを個人的に考えても手取川が起源だよねと言われても不合理なところはないのではないかと思ってしまいます。
しかし、正直なところあっさりとまとめてくれたな日置先生ーと私は思うのですが。確かに不合理はない。実際のところ、森田平次の金沢古府のかつての呼び名石川に由来する説なども考えても根拠が薄いのも事実です。これほどの石川=手取川の大胆な推測が一度に定着したというのもその根拠の薄さを表しているようにも感じます。
というわけで
歯切れが悪くすいません。。。
この手取川説は石川県史にも書かれていますが、石川郡などの話も忘れないように。森田の金沢の古府説も歴史的に見たら何の不合理性はない。 ようするに この石川という名前の語源もまだ定まっていない ということをしっかりと書いておきたい。
※ 参考 「加賀志徴」森田平次 著 1969年復刻
※ 参考 「角川日本地名大辞典 石川県」 角川書店
※ 参考 「都道府県名と国名の起源」 古今書院 吉崎正松 著
※ 参考 「伝統都市の空間論・金沢―歴史・建築・色彩」 田中喜男 著 1977年
さいごに
いかがだったでしょうか?「金沢県?間違ってる?時代が違うだけで正解です!金沢県と石川県を間違えても正しく答える石川県の名称由来の模範解答教えます。」
テレビでも間違えられる金沢県の名称ですが、その県の名前を聞いたらこの記事のことを思い出してください。そして、こう答えるのです。
と答えるとより金沢愛溢れてカッコイイのではないかと思います。
金沢県という県は実際に明治4年(1871年)7月14日から半年間存在していました。その歴史的な流れと石川県の名称の由来を見てきたわけですが、そこには様々なストーリーと説があるということ。そして、歴史というのは小さな決断の連続の積み重ねで大きな流れができているということを忘れず楽しむのが歴史の醍醐味であるということもちょっとこの記事で伝えることができたら本望です。
今生きている、あなたとの出会いもこの世界で同じタイミングで生きているという、とても幸運なことだと思います。しかし、歴史という大きな世界に入ると過去の世界を生きた多くの人に会うことができる。この歴史を知り、深めるということは愛すべきに出会う幅を広げるということなのだと思っています。そのいっとを担うことができれば良いなと思います。
地名つながりで 今度は「金沢」の由来を特集したいと思います。 北海道石狩郡には金沢の人が開拓したことによる金沢という地名がついたというなかなか面白いストーリーが多々あります。お楽しみに。
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