NHKでブラタモリがレギュラーで始まったそうだ(2015年4月24日現在)。
そうかそうか長崎か。いろいろな文化が長崎から入ってきたから歴史もあるしエキゾチックで面白いだろう。
北陸新幹線で注目されている金沢に来た。これも北陸新幹線効果なのでしょうか。
ブラタモリ金沢の第一回(2015年4月25日)内容は「加賀百万石はどう守られたか?!」
加賀百万石はどう守られたか?!と題して寛永8年の大火直後に築かれた防火のための用水と言われる辰巳用水を上流からタモリがブラブラ歩き、金沢の近江町市場などの観光地の裏を走る内・外惣構辰巳用水をめぐるというものでした。
タモリさんがほぼ初金沢ということに驚いたのですが。
内容は意外と面白かったです!
2.せせらぎ通りの建物は惣構の上に作られてんだー
3.香林坊の木戸おもしれー。本マガジンでもすでにやりました。うちが先!だぞ
4.惣構は防衛上作られたんだー
5.近江町市場の中にも惣構があるんだーと世界のダイヤモンドの謎の階段登場
6.辰巳用水は防火のために作られたんだ。小立野大地には水運ぶの難しいからな
7.逆サイフォンで小立野大地から城に水を入れたんだすげー
8.辰巳用水をタモリさんのために止めました!
9.辰巳用水の上流(上辰巳)から辰巳用水の中を探索
という内容でした。一言大声で感想を!
辰巳用水まで止めちゃって!
でもタモリさんが代表して遊んでくれたのでいいのです(・ω
誰も追いつけないくらい異常金沢情報をお届けする本マガジンではこんなブラタモリ金沢では飽き足りません!!強気ですいませんm(_ _)m そうなのです!金沢愛の力で斜め上を行きたいとおもいますm(_ _)m
ブラタモリでは守られた金沢でしたが、
ブラタモリ金沢に乗っかりたい!m(_ _)m 本マガジンでは、防衛のお話ではなく大火のお話中心にお話していきますが、少しお付き合いくださいm(_ _)m
ブラタモリ金沢の内容が本になっています!(2016年7月発売)
KADOKAWA/角川書店 (2016-07-29)
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そもそも金沢は大火が多かった
今では金沢市内での火事は数少なくなってきていますが、金沢の近世の歴史を見ていくと金沢の町は何度も大火にあい復興を遂げてきている。その回数を調べてみると日置謙の石川県史によると一つの始まりともされる1631年 寛永8年 金沢城も焼いた寛永の大火以降、1859年 安政6年 224年の間に52回の大火が記録されている。
平均するとおよそ43年ごとに100棟以上の大火に見舞われたことになる。その大火の多くは4月〜5月に起こっています。これは様々な人が指摘していますが北陸のフェーン現象が影響しているのではないかといいます。確かに近年でもこの4月5月の雷でお家が燃えたという話を聞きますね。
寛永の大火と辰巳用水
金沢では何度も大火が起こっている。その一つが寛永の大火です。この寛永という時代には実は大きな大火が2度起こっています。一度目は寛永八年に起こる。この大火では城内にまで延焼し居館を含め多くの御城を消失した。二度目は寛永十二年。この大火の際には御城にまで延焼することなかった。
寛永八年の大火
一度目の寛永の大火。寛永八年の大火出火元はしっかりとわかっている。放火であったと言われており、その人物もある程度わかっていると言われているが私は史料で確認はできていない。すいませんm(_ _)m
今でも存在している寺でもある(場所は変わっている) 犀川橋爪の法船寺(ほうせんじ)から出火した。その火は河原町、本町、立町、千石町、御城御本丸、江戸町、金屋町と次々と金沢の町を焼いていった。もちろん、前途のように御城の中も延焼した。御城御本丸、三階櫓が完全に灰となってしまったのである。
この寛永8年の大火の際に復興の舵取りをしたのは鼻毛大名で有名な前田利常でした。不運にも二度の大火を利常は経験することと鳴るのだが、利常はこの寛永8年の大火の際に行ったことは2つある。
1.辰巳用水の建設
2.本丸である居館を民家から遠ざけて建設した(二の丸へ移動)
辰巳用水の建設はもう皆さんの知るところですが忘れがちなのは利常は本丸から二の丸へ住まいを移動したということです。
↑ 現在の金沢城の本丸跡地。ここにも利常によって居館が二の丸へ移されたことが書かれている。
寛永8年で燃えた城の残骸は金沢城の遺跡調査で見つかっているから面白いです。
寛永9年 辰巳用水の建設
この辰巳用水はブラタモリでも取り上げられてましたね。タモリさんが上流から辰巳用水の中には言ってました。ズルい!!小立野には犀川、浅野川の水を上には上げられなかったので金沢の小立野大地の奥、上辰巳町の辺りから取水し、金沢城に向かって御城の防火のための用水を建設されました。取水口の地名、上辰巳町(旧辰巳村)から辰巳用水という名称になったと推測ができます。その総延長はおよそ11km。当時としては相当の大事業だったと容易に想像ができます。しかし、驚くことにこの辰巳用水は建設期間わずか半年。現代技術であれば一ヶ月位でできるのか?!気になるところですが。
辰巳用水は兼六園(竹澤御殿)から金沢城にどういうふうに水をいれるかということに頭を使いました。これをブラタモリでも紹介されていたのように逆サイフォン、高低差をうまく利用して小立野大地から金沢城に水を引き入れました。
※ 逆サイフォン標高図 金沢用水散歩
この辰巳用水は金沢城に引き入れられ、寛永8年の大火で延焼した金沢城の経験を活かした形となります。この辰巳用水は金沢古蹟志によると寛永9年の辰巳用水の完成とともに石川門のお堀に水が入れられたともあります。
※ 辰巳用水絵図 天保5年 石川県立博物館
辰巳用水の建設を行った板屋兵四郎
辰巳用水に用いられている逆サイフォン。特殊な土木工事を一体誰が行ったのか。それは
といわれる。小松の住人と言われるがいまいちよくわからない。
能登で小代官下村兵四郎という名前で塩田なども含む数多くの土木工事を行ってきたものではないかと言われていたり、この工事の直後に板屋兵四郎他9人が捕らわれたという話があったりする。しかし、封建社会ではよくあることで大工事の後、情報漏洩を恐れて捕らえるというシナリオだ。
とはいえ、辰巳用水の工事後も越中で用水開削工事を行っていたという記録があったりとやはりよくわからない。加賀藩史料にもいろいろと書かれているが、この辰巳用水の工事以外ではあまり名前も出てこず謎の多い人物とされている。いつの日かしっかりと調べてみたいと思う。
1635年 寛永12年の大火
寛永時代には二度の大火が起こっている。しかも前田利常時代に。この寛永12年の大火では辰巳用水がひかれた後の大火とあって防火対策ができていたのか?実際にはこの大火で本丸は燃えることはなかった。それは利常が行った2つの対策、辰巳用水や二の丸に本格的な居館を設けた事によって守られたのかもしれない。
宝暦9年の大火「守りきれなかった金沢」金沢史上最大の大惨事
金沢で起こった大火、先の寛永の大火だけではありません。先にも述べたように金沢で起こった大火は先の寛永の大火を始まりとした1631年 寛永8年から1859年 安政6年 224年の間に52回の大火が記録されている。そのなかでも目立った大火を歴史を追って見ていくと
1620年 元和6年 金沢城火災
1631年 寛永8年 金沢大火、城内類焼。寛永の危機。
1632年 寛永9年 辰巳用水完成
1635年 寛永12年 金沢大火
1731年 享保16年 金沢大火 1,300棟余りを延焼
1736年 元文元年 金沢大火 3,500棟余りを延焼
1759年 宝暦9年 金沢大火により金沢城被害 他10,500棟余りを延焼
1808年 文化5年 金沢城二ノ丸御殿より出火
1835年 天保6年 金沢大火 東・西本願寺以下939棟延焼
ちょっと注目してほしいのですが
宝暦の大火
大切なのでもう一度言います。
にわかに信じられないほどの大惨事である。まさに桁外れの被害で 金沢の歴史300年で最も大きな災害 と言ってもいいのではないだろうか。※1 わが町の歴史 金沢 文一総合出版 田中喜男 より
加賀藩史料の言葉を借りるのであれば
「魂をとばし、愛をも焼き、のこらず灰とす」
あまりの大惨事のためその原因は怨霊ではないか。そう疑わざる負えない程の大惨事。
というわけで、この守りきれなかった金沢、忘れてはいけない宝暦9年4月8日の金沢史上最大の大惨事をまとめました。
はじまりは加賀騒動から
そもそも、この宝暦の大火は加賀騒動から始まります。
この加賀騒動とは前田吉徳・大槻伝蔵の独裁政権時代から始まります。六代藩主 前田吉徳(よしのり)と大槻伝蔵はタッグを組み傾いていた財政を様々な手法で立て直してきた。この手法には様々な見方があるがそこには多く言及はしない。
1745年延享2年6月12日。前田吉徳が亡くなるとともにともに政策を行ってきた大槻伝蔵は優遇されなくなってしまう。
藩主は七代前田宗辰(むねとき)となるが、就任2年ばかりで病死。その歳、わずか享年21。
待遇されなくなった大槻伝蔵の陰謀ではないかということを頭を過るのは前田宗辰が亡くなった年齢のせいだろうか。
そして、藩主は八代前田重煕(しげひろ)時代となるが、ここで巻き起こる怨みと憶測をめぐる大事件が「加賀騒動」なのだ。
様々な文献があって細かいことがややこしく書かれていてわかりにくいが、
加賀騒動を超ざっくり説明します。
この加賀騒動の人間関係、末路をわかりやすくまとめると。
加賀騒動の人間関係
実行犯 = 奥女中 浅尾
主犯 = 真如院(前田吉徳の側室)
毒殺の指示 = 大槻伝蔵
動機 = 大槻伝蔵が現政権内で優遇されなかったため
というのが加賀騒動の中心の出来事です。
大槻伝蔵は女中や前田吉徳の側室を使って間接的に陰謀を企てたとされています。現代ではこの加賀騒動はでっち上げだったと言われています。当時ですら真相がわからない事件のことを、260年もたった今、その真相を知るべき手段はほぼないのは当たり前のことでしょう。
加賀騒動の末路
実行犯 = 奥女中 浅尾 = 処刑される
主犯 = 真如院(前田吉徳の側室) = 幽閉・自害(自ら望んで)
毒殺の指示 = 大槻伝蔵 = 五箇山にて自害(真如院の死を知って)
この加賀騒動では事件の中心人物の末路もしっかりとわかっている。奥女中 浅尾は処刑。主犯とされている前田吉徳の側室 真如院は幽閉されたが、その後自害。大槻伝蔵はいつもの五箇山の流刑小屋に流経されたが、真如院の死を知って大槻伝蔵は自害(1748年延享5年10月4日)したとされている。
大槻伝蔵の死から5年後の1753年宝暦3年に前田重煕は亡くなる。
加賀騒動の余波が続く前田重煕の死の6年後、1759年宝暦9年に金沢の大惨事をむかえることとなるのである。
1759年宝暦9年4月8日(前日)
守りきれなかった金沢、金沢史上最大の大惨事。その前日、1759年宝暦9年4月8日。
1759年宝暦9年4月8日この夜、金沢城中に多勢の人語を聞くの怪事あり(加賀藩史8巻 61頁)
気持ちが悪いことに、
怪奇現象があった。
加賀藩史8巻 61頁に記載があるのだ。武器を持って大勢で怪しい声のするところへ足を運んでみるが、そこには何もないと。大惨事の前兆なのではないかと思わさせるから更に気持ちが悪い。
1759年宝暦9年4月9日
この大惨事をむかえる1759年宝暦9年4月9日。奇しくも毒殺未遂を受けた
というから更に何か気持ち悪さを感じる。そして、ついに迎える金沢最大の大惨事。
宝暦の大火のことについて加賀藩史冒頭ではこのように始まる。
大惨事だったかを物語る。そして加賀藩史はどのように金沢が燃えて行ったかを淡々と語っていく。この宝暦の大火に関して書くと一冊の本が書けるというくらいの内容なので一部を抜粋しておく。
既に火許者、泉寺町玉泉寺の空地より一町程末に玉龍寺といふが塔中舜昌寺より、未の中刻頃より出火、六斗林の方へは壹町程燒上り、會津妙法寺へ入せうじ(小路)の角切に留る。
扨下の方の火は玉泉寺むかひ遍照寺までにて燒留る。火本より玉泉寺空地まで諸寺・町家兩側不殘燒亡して、遍照寺隣寺よりうしろの足輕町さゝか町へ燒出、野田寺町伏見寺門前大圓寺切にやける。向側妙典寺切にて、野町の方は極樂寺の隣町家二三軒、向側いなば藥師翠雲寺の下の方町家等燒申候て火は止る。其間の寺々本妙寺・安住寺・松月寺・淨安寺・伏見寺等悉くやけ、右妙典寺の炎つよく火風はげしければ、犀川の數十間を飛火して十三間町の上町二ヶ所よりやけいで、夫より十方へ付廣がりて火口數もしれず、寺町やけ終てさらに川向の火最中になり、川除近邊水溜御歩町、川上は舟場より壹町程上定小屋の下までにて、川除の方不燒、その火新竪町・百姓町へ出る。
新竪町は、九里覺右衞門より貳町程上、百姓町通丁の向に慶覺寺と云一向寺の後筋少上にて留る。立町へ出る火は、犀川荒町近郷、本多遠江家中入口々々の侍町、凡思案橋の下家中出口より疊屋橋へ行こなたせうじ、柹木畠入口城戸境まで侍町殘らず、水車近邊里見次郎右衞門町、柹木畠御厩町、夫より前田左膳近邊大家のこらずやけ通り、右の火古堂形の御藏のこらず燒失、大木へ燒付、梢より御城内へ火移り、御本丸を始として二三の御丸、御門々々、櫓々塀々、御藏々々に至るまで、のこらず一時の灰となりしぞや。
此音に城下の老若男女貴賤、魂をとばし行方をうしなひ、家財をも今はをしからじと、つらき命を物種と、或は親を負ひ子を抱きて、まだ火のいたらざる方の一もんしるべの方へ行ば、爰へも火やきたる、かしこへや火のいたるといふ程こそあれ、一向に火筋ならざる所も同じく立退し家内には、心強き男或は一二人ならで殘らず、みな?町端なる野邊に遁さりぬ。火しめりぬれどもいまだしれやらで、其夜はやけたるもやけぬ人もたちすくみにぞ夜を明しぬ。(以下省略)
宝暦の大火の損失
金沢泉寺町(寺町)瞬昌寺から出火したこの宝暦の耐火で10,500戸が延焼。何度も繰り返しますが、
侍と関係する家 = 4,105軒
寺社 = 99軒
町家 = 4,775軒
その他 = 1,529軒
橋の焼失 = 28橋
死者の数はわからなかったが被害は相当であることは想像に難くない。わかりやすく現代の数字で比較すると平成27年度の調査によると内灘町の戸数は10,349戸なので
現在の内灘がすべて延焼したに等しい
からさらに驚きだ。
この火災で失ったのは387,000石。この387,000石とは一体どのくらいの現代の金額になるのか?そもそも100万石とはどのくらいの金額の話なのか?これは色々と問題にはなるが1石はおよそ米150kg。これをまず現代の米の値段に置き換える。
Amazonで石川産コシヒカリ10kgが3,380円だったので 387,000石 x 150kg x 3380 = 196,209,000,000円。米の価値だけで価値を考えると宝暦の大火は1,962億900万円の損害ということになるが藩の予算から再度価値を考えてみる。
そもそも100万石とはどのくらいの金額のことを言うかというと
100万石 x 150kg x 3,380円(Amazonの米の値段) = 5,070億円(百万石の価値)
ここでポイントににあるのは予算感を現代の規模に合わせることだ。物価的なものを揃えるために当時最も予算のある藩の一つだった加賀藩のことを考えると、現在の東京都の年間の予算6.5兆円と同等と考えると(ちょっと多いかもしれませんがm(_ _)m )
5,070億円 : 6.5兆円 = 1 : 12.5 (現代の予算感の掛率)
被害総額を現代の予算感に合わせると
1,962億円 (宝暦の耐火の被害総額) x 12.5(現代の予算感の掛率) = 2.5兆円 現代の貨幣価値に置き換えると
という計算(本マガジンでの独自計算)。
そう思うのでしたm(_ _)m
宝暦の大火から復興へ向かう金沢
そして、少しずつ金沢は復興に向かっていきます。
4月13日 金沢藩、災後初めて、金沢城内東照宮にて時鐘を撞かしむ
4月15日 金沢大火災の報、江戸に達す
4月16日 金沢火災の詳報、再び江戸に達す
4月19日 前田重教の災後に処する諸士の心得を諭したる書、金沢に達す
4月22日 金沢城災に罹りたるを以て、徳川家重、使を前田重教の江戸邸に遣はして慰問せしむ
4月23日 大聖寺候前田利道、使者を金沢に遣はして火災を慰問せしむ
4月24日 前田駿河守、御城方御用の職を辞せんことを請ひ、尋いで慰留せらる
4月26日 前田重教の使者青木与右衛門、金沢に着す
4月29日 金沢の非人頭等、火災に際し役務を尽さざりし罪を謝す
4月29日 大聖寺候前田利道、帰封の途金沢を過ぐ
4月29日 老臣本多遠江守等、災後の金沢城内を巡視す
5月4日 老臣等、諸吏に火災以後特に倹約を実行すべきを以て、その意見を上申することを命ず
5月7日 平尾邸内の納屋、焼失す
5月12日 金沢藩、金沢城中及び城下の罹災に関する覚書を幕府に提出す
5月15日 前田重教、蔵米を頒ちて罹災の士庶を救済すべきことを命ず
5月21日 金沢に地震あり(鳴強小地震有。其の次大地震、人騒。家々屋上へ上置天水桶の水ゆりこぼす。)
5月22日 幕府、前田重教に金五万両の貸附を許す
5月25日 金沢藩御馬廻毛利三郎太夫、石川郡宮腰の町人を殺害し、尋いで閉門を命ぜらる
5月晦日金沢藩、罹災の士庶の下附すべき米穀及び木材の数量等を定む
あまりの惨事のために前田家は幕府から5万両を借り入れることとなる。
そして復興の見込みが無いと御倹約御用兼御勝手方御用の「前田正躬」が辞職を申し出るほど大変な復興だった
そして残ったもの
やはり気になるのは何よりこの宝暦の大火と加賀騒動との関連性である。怪奇的な物音、そして前田重煕の七回忌、大槻伝蔵の怨み、そして大槻伝蔵一派が金沢に火を放ったのではないかという疑い。
しかし、結果として何もかもを焼いてしまったという人の無力感と喪失感。そしてようやく加賀騒動は収束に向かうのだから恐ろしい。愛をも焼きようやく加賀騒動は終息する。加賀騒動とはとんでもなく根の深い怨み深い事件だったといえる。
加賀藩の300年近くの歴史で最もの大惨事、宝暦の大火。この大火から金沢は守り切ることができなかったのだ。
さいごに
いかがだったでしょうか「金沢史上最大の大惨事「愛をも焼きつくした」宝暦の大火!ブラタモリでは金沢はどう守られたか?だったが「守りきれなかった金沢」のお話をします」
ブラタモリ金沢では防衛上や寛永の大火などから守り切った百万石という特集でしたが本マガジンでは斜め上を行って「守りきれなかった金沢」ということで宝暦の大火の話を取り上げてみました。
やっぱりタモリみたいにブラブラ歩かないと面白く無いなぁと歩く企画をやろうかと思いました。。公営放送ズルいなぁ。
寛永の大火をはじめ、今回紹介した宝暦の大火が起こったのか、なぜ守りきれなかったのか。その後、どのように復興を遂げていったのか気になるところではないでしょうか?
今回紹介した宝暦の大火の後、前田藩は幕府から5万両を借り入れたり、町を東西南北のグループに分けた防火対策を行ったり、民間にはしごや辻桶、鎌、熊手などを常備させるなど様々な対策を行いました。その対策のおかげでしょうか、宝暦大火以上の大火は起こりませんでした。この細かい対策などまた別の機会に詳しく書いていければなと思います m(_ _)m めっちゃお楽しみに!
参考文献:
・石川県史 日置謙
・加賀藩史料 日置謙
・金沢古蹟志 森田平次
・加賀能登の歴史 若林喜三郎編著 講談社
・石川県の歴史 高沢 裕一他 山川出版
・金沢用水散歩 笹倉信行 十月社
・わが町の歴史金沢 田中喜男 文一総合出版
・加能越近世史研究必携 田川捷一 北國新聞社