北陸新幹線が開業してからというもの、石川県金沢とは一体どういうところなんだ、どんな歴史なんだ、どんな文化があるんだと様々な方面からのアプローチがあったように思います。
ブラタモリ金沢も早々に放送され [ 本マガジンでもそれに合わせて記事を作りました ] 金沢を深く紹介いただいたことも記憶にあたらしい所です。
観光のお客さんがすごくたくさん増えてしまって今までの金沢が徐々に私の金沢だったところがだんだん「みんなの金沢」になってしまったように思います。だからこそ、この郷土に育った我々はより深く郷土のことを知り、私の金沢を更に深める必要があるのではないかと私は思っています。
そこで本マガジンは
という趣旨で初めさせていただきたいと思っています。非常に地味で退屈かもしれませんが石川県・金沢の歴史を知るための入り口としてまず、触れていただければなと思っています。
何度も繰り返しになりますが!
また、観光とは全く関係ない!と思いますが最後までお付き合いいただけると幸いですー!
石川県郷土の泰斗図
おそらく生きていく上でほぼ必要のない知識には間違いないのですが、学校などで習う教科書の多くに書かれている石川県などの歴史の多くも誰かが歴史として編纂(へんさん)して、形になっているからこそ成り立っているということも事実でしょう。石川県が石川県で、金沢が金沢である理由がまさにその歴史の編纂ではないかと思います。
この石川県の歴史をまとめた方々を本マガジンでは歴史の泰斗(たいと)と呼び紹介していきたいと思います。
まず、この石川県の郷土の泰斗図をご覧ください。
地味で退屈でも絶対忘れないで欲しいのはこの3人
森田 柿園(もりた しえん)
日置 謙(へき けん)
日置 ←これで へき と読むのはあまり知られていないようにも思います。図の最後に出てくる巌 如春(いわお じょしゅん)は歴史というよりも絵図を書かれた方です。彼についてはまた別の機会にご紹介したいと思います。
出来る限り詳しくご紹介していきます。少々お付き合いください。
冨田景周(とだ かげちか) 1736年〜1828年
冨田景周(とだ)景周は先祖であるは剣豪冨田重政は前田利家が金沢入城とともに七尾から金沢へ移転しました。そのときに一万坪ほどを拝領し寺も現在の東山の「慈雲寺(じうんじ)」に移す(利家入城の1583年以降)
冨田景周は伯父冨田景和(けいわ)の養子となり、2500石を継ぐこととなり、小松城の番や御算用場奉行(ごさんようばぶぎょう)の傍ら歴史や地誌や漢詩など様々な著作60余、350巻を著す。
その経験を踏まえて富山・石川の郷土史の大著である「越登賀三州志(えっとがさんしゅうし)」を完成させます。その完成には小松出身の田辺政己(たなべ まさおの)が書いた「能登日記二巻」などの著書の背景があると言われております。
その後、隠居。隠居後は痴龍扇(ちりゅうおう)と称し、12代前田斉広(なりなが)に対し、儒教と身分制に則った政治を求める主張を行う。上級家臣の無学や職業的儒者を厳しく批判、若い人持の士の教育のため「下学老談(かがくろうだん)」(1809年)を著し、自ら講養。これを「加賀論語」とも呼ばれる。そして文政11年(1828年)83歳で亡くなる。
・1780年 小松御城番
・1785年 御算用場奉行、能州御預地御用兼帯
・1805年「越登賀三州志」を前田斉広に献上
・1809年「下学老談(かがくろうだん)」執筆 = 「加賀論語」
・1815年 「加賀国菊酒考」執筆
・1818年 隠居 痴龍扇(ちりゅう・おう)と称する
・1825年 加賀藩の学者や文人の伝記や漢文集「燕台風雅(えんたいふうが)」を加賀藩に献上
・1828年 没 83歳
冨田景周の最大の功績は
永延元年(987)から万治元年(1658)年までの治乱興亡の詳細が書かれていて、中世から近世に入る越登賀の歴史をまとめてある入り口として今なお重宝されています。中世〜近世の入り口当たりまでを明らかにするが、古さもあって信ぴょう性に乏しいと日置先生は所々でバッサリ切ってるから面白いです。現在では能登印刷出版の超訳「越登賀三州志」が出版されています。そう。Amazonでも買うことができます。
ほんとに歴史の話って退屈ですよね。ちょっとここから面白いです!この冨田景周のお墓も今も前田利家時代に移ってきた場所東山の慈雲寺に残っております。
実際に行ってきました。
慈雲寺は金沢の人気観光地の東山の広見(東山の入り口)から歩いて約5分。宇多須神社の越えて右折。ちょっと坂を登ると見えてくるのが慈雲寺です。
↑ 東山の宇多須神社を超えて右です。このちょっと高いところにあるのが慈雲寺です。
↑ 寺の由来にも冨田家のことが書かれています。
↑ お寺の奥の方にお墓がありますので必ず住職などに必ずお声をかけてくださいね。
↑ 冨田家の歴代のお墓がズラリと並んでいます。そのお墓の左隅の方に。
↑ 冨田景周のお墓が有りました。かなり劣化も進んでおりましてちょっとかわいそうな感じもしました。
森田柿園(もりたしえん) 1823年〜1908年
本マガジンイチオシの郷土の泰斗はもう本マガジンでも何度も登場して頂いております「森田柿園」先生です。森田柿園のことについてのみの記事を作ろうかと思っていたくらい柿園のことについて深く書きたかったのですが汗。あまりに地味ですいません。
まず、この森田柿園のご先祖から追っていきましょう。すべての先祖を紹介したいのですが少しずつ。
森田家の元祖は越前吉田郡森田村(福井市)の出身。福井駅の二つとなりくらいに森田駅ってのがあります。その後、七代の森田武右衛門が柿木畠に住み始めたのが柿木畠に住み始めたきっかけと言われている。
四代の森田盛昌(もりまさ)】 (享保17年没) には「自他群書」「漸得雑記」(ぜんとくざっき)」 「咄随筆」などの著作。この頃は金沢駅近くの嶋田町に住んでいた。この咄随筆は覚えておいてください。ちょっと飛んで七代 森田武右衛門(たけうえもん)】の時に御馬廻組の茨木氏に仕えて五十石に(平次の曾祖父)この時に柿木畠に住み始める。 八代 作左衛門(さくざえもん)の時に六十石となって家を柿園舎(しえんしゃ)と名づける。九代 大作良郷(よしさと)は文武諸芸にすぐれ 「続咄随筆」「泰雲公御年譜」「続漸得雑記」(ぜんとくざっき)」 などの著作。
そして、十代 平次(へいじ) 平之祐(へいのすけ)、良見(よしみ)とも称していた。明治の戸籍法により平次とした。祖父にならって柿園と。金沢の大辞典「金澤古蹟志」をまとめる。
平次についての詳細であるが、家督をついで御馬周の茨木氏に仕えたが、 明治になってから加賀藩の寺社所、民政寮の神祇方役所、 金沢県・石川県の寺社係に勤務して神仏分離をはじめとする神社行政に深い学殖にもとづいて卓越した手腕を発揮。とくに石川県と足羽県(福井県)との間に白山の頂上と山麓18箇所村の 帰属問題が生じた時、綿密な考証によって石川県への所属を実現させたのは大きな功績。
明治九年(1876年) 54歳で石川県を退職してから加賀藩関係の記録類の編纂や 著述に専念し、明治十八年から明治三十年まで旧藩主前だけの嘱託となって 編纂業務に従事した。前田家をやめてからも執筆を続け、68歳の時に「金澤古蹟志」を完成させる。85歳のときに縁側から落ち腰を打ってから歩行が困難となり、やがて病床について 翌年明治41年12月1日に逝去。
森田柿園は、非常な勉強家で、眠るのは一日にわずか三〜四時間。用事のないときは 目を閉じて視力の衰えを予防したという逸話や、編集作業も独特で文章と文章の間に一行を追加する際にはその 間を切り紙を張り継ぎ足して一行を追加するなど独特な編集方法を行っていたという逸話も残っている。真面目で勤勉できっと静かなだけど熱いという人だったのではないかなと想像しています。
森田平次の唯一の写真。明治41年(1908年)6月撮影。この写真を撮影した半年後、明治41年(1908年) 12月1日に86歳で他界。
1837年 茨木忠順近習として勤仕
1846年 茨木家の旧記取調を命ぜられる
1857年 5月に家督相続60石を賜る
1868年 加賀藩寺社所出仕 (45歳)
1869年 11月に前田家家録編集係となる
1870年 士族に加えられる。12月「日本記」「万葉集」などの前田慶寧の御前講を賜る
1871年 廃藩置県、旧城内蔵書取調方 (48歳)
1872年 2月 蔵書取調終了。前田家蔵書を借用し自宅に前田家家録編集。(49歳)
1872年 4月 石川県庁等外三等庶務課社寺係出仕
1872年 5月戸籍法により平次を本名とする
1872年 7月足羽県(福井県)と石川県との県境実地検査出張「白山論争記」を執筆、歴史考証により石川県の管轄となる
1874年 3月 順徳天皇御神霊佐渡より還遷御用係
1874年 7月 白山領上仏像下山のため出張。「白山復古記」などを執筆
1875年 7月 庶務課社寺係教導事務兼務
1876年 1月 能登鹿島郡小田中村親王塚検査に出張、祟神天皇の皇子大入杵命の墳墓と治定。
1876年 4月石川県を辞職(54歳)
1885年 前田家より加越能三州事蹟の編纂を依頼され着手
1891年 「金澤古蹟志」執筆 (68歳)
1889年 前田家御用の書籍編纂を終了
1908年 死去
森田柿園の功績は2つ。
功績2. 金澤の百科事典「金澤古蹟志」
明治になってから加賀藩の寺社所、民政寮の神祇方役所、 金沢県・石川県の寺社係に勤務して神仏分離をはじめとする神社行政に深い学殖にもとづいて卓越した手腕を発揮し、石川県と足羽県(福井県)との間に白山の頂上と山麓18箇所村の 帰属問題が生じた時、綿密な考証によって石川県への所属を実現させたのはとにかく大きな功績。今、白山が石川県であるということはこの森田柿園の功績です。
もう一つは、金沢の歴史を知ろうと思った時に必ず手に取ることになる金澤古蹟志についてです。この金澤古蹟志は金沢城をはじめ城下の由来や沿革や関係事項などを記した名著で初稿本で前34巻にも渡る。いわば金沢の百科事典とも言えるような素晴らしい金沢のまとめ本です。
時代も便利になったもので、この大きな彼の功績、白山神社考、そして金澤古蹟志は現代ネット上で見ることができます。こちらのリンクより閲覧が可能です。
森田家の墓
森田家の墓は金沢の駅西、線路沿いにある曹洞宗の放生寺(ほうしょうじ)にあります。実際に足を運んできました。金沢駅の西口から歩いて5分。本当に新幹線のプラットフォームから降りてちょっと歩いたところにあります。お墓から駅、電車も見えるくらいなのです。
↑ 放生寺の入り口。お墓は奥にありますが、必ず管理の住職などにお声をかけてお参りに行ってください!
↑ 森田家の墓。代々のお墓が並んでいます。
↑ 森田柿園、そして妻の逸のお墓は仲良く2つ並んでいました。
森田柿園のご子孫
森田柿園の曾孫「鈴木 雅子」が書いた「金沢のふしぎな話」というのが販売されています。こちらは森田の紹介の前半にも出てきましたが、四代の森田盛昌の「咄随筆」九代 大作良郷 (よしさと) 「続咄随筆」などを現代語訳として復活させた「金沢のふしぎな話」という本です。森田家の研究を含め金沢のDNAを完璧に受け継いだ金沢の由緒ある本と言ってもいいのではないでしょうか。こちらもAmazonで購入ができます。
日置 謙(へき けん) 1873〜1946年
日置 謙 ← これで「へき けん」と読みます。私にも日置(ひおき)というお友達も居ますが、「へき」と読みます。先に紹介しました、富田景周、森田平次、日置謙の3人を加賀の地方研究の御三家と呼ばれることもあります。それは先の冨田景周、森田平次の史料を集大成させたためです。日置謙が完成させたのは現代でも利用される「石川県史」5巻「加賀藩史料」16巻「加能郷土辞彙(きょうどじい)」その他数多くの郡史など過去の史料の集大成として完成させたのがこの日置謙なのです。
この日置謙は金沢市田井町(現在の暁町) 旧加賀藩士族の子。第四高等学校卒業後に熊本陸軍地方幼年学校助教、福井・岩手県県立中学校教諭、石川県立第一中学校教諭(38歳)前田家の編集員、石川県氏の編纂を嘱託として行う。
個人的に思うのは日置先生は難しい人だったんだろうなぁと思っています。個人的に面白かったのは、日置先生の弟子の一人である「鏑木勢岐(せいぎ)」が日置先生の人柄を「日置先生の史観は正確な史料の裏付けがない限り、すべて抹殺否定するというのです。」太平記は史学に益なしと言い「抹殺博士」の異名を付けられた重野安繹(しげのやすつぐ)になぞり「抹殺病にかかった」と苦笑いすることもあったそうな
以前、本マガジンでも 「金沢県?間違ってる?時代が違うだけで正解です!金沢県と石川県の時代の流れを正しく知って石川県の名称由来の模範解答教えます。」 という記事を公開しておりますが、こちらでも日置先生の抹殺病が現れております。
しかし、この抹殺病が悪いというわけではありません。この強い姿勢が石川県の郷土の研究を少しずつ前に進めてきたことは間違いありません。日置先生のスタイルは「当代記(とうだいき)」「太閤記(たいこうき)」などの史料と「越登加三州志」などの加賀藩の史料を照らしあわせて史実を確定するスタイルをとり、例えば金沢の由来である芋掘り藤五郎の俗説もバッサリ否定し伝説と史料を分けるべきと提唱した。これが少しずつ石川県の歴史を紐解くことに前進したと思います。
一部読むことができます。
加賀藩史料16巻
東京大学史料編纂所 → 「データベース選択画面」をクリック → 「近世編年データベース」をクリック → 「項目検索」をクリック → 史料区分で「加賀藩史料」を選択
加能郷土辞彙
近代デジタルライブラリーで読めます。
巌 如春(いわおじょしゅん) 1868~1940年
そして最後に巌 如春(いわお じょしゅん)です。如春に関しては金沢の風景を描く絵師として非常に多くの作品を残しています。彼だけでも面白いコンテンツになりますので次の機会にじっくりと彼だけの記事を公開したいと思っています。
画像) 昭和2年(1927年) 中村友勝蔵手前より野島春影、巌如春、中村友勝 撮影は弟子の宇野宇高(石川県立博物館 風俗画伯 厳 如春 -都市の記憶を描く-)
如春の生い立ちを簡単に説明しておくと、巌如春は明治元年(1868年)金沢市竪町に生まれる。幼名は甚太郎、甚蔵に襲名。生家の屋号は鵜飼屋 (文化八年の金沢帳名にもある) 如春が絵師になったのは父親が浮世絵師だったことによるのではないかと言われています。佐々木泉龍(ささきせんりゅう)や宮嶋恒信(みやじまつねのぶ)に浮世絵を学び金沢の数多くの風景を描いた。
彼の絵に会える資料を幾つか紹介しておきます。便利な時代で多くがオンラインで見ることができますので彼の作品に一度触れてみてはいかがでしょうか?
さいごに
いかがだったでしょうか?「石川県の郷土の泰斗!とても地味ですいません!石川県や金沢の歴史を詳しく知るにはまずこのおっちゃん達のことを覚えておこう!」 石川県の歴史を作った人たちの話をちょっとだけご紹介いたしました。意外とWeb上ではこのような情報がないので少しでも石川県の歴史を作ってきた人たちのことを知る機会を与えられれたのであれば本望です。
郷土という言葉をよく使いますが、そもそも「郷土」という言葉は大正二年に柳田国男・高木敏雄の共著で「郷土研究」(1913年~1917年)という雑誌が出された頃から盛んになっていったものと言われています。19世紀にには世界でも数多くの郷土研究が行われてきたが歴史家は郷土史を説き、地理学者は郷土地理を唱えるだけ。郷土研究はどういう目的か明確ではなく結果も残せなかった。それを踏まえ、柳田国男は「一地域の郷土研究にとどまらず日本全域」を研究するためと唱える。郷土を知って日本そのものを知る。まずは郷土を知ることからはじめよう。それこそ郷土を知る意味であると思います。
まずは石川県の歴史がどのように編纂されたのか、どんな人が編纂したのか、そしてどんな人が石川県を愛していたのか。それを知ることで郷土研究の入り口になれば本望です。