第7ギョーザの歴史「金沢ギョーザ物語」柏野幸一と辰子からはじまる金沢のギョーザの物語!金沢では餃子ではなくギョーザなのだ。
みなさんこんにちは。
金沢のB級グルメといったら何を連想しますでしょうか?
8番らーめん? ゴーゴーカレー? 第7ギョーザ?
今回はケンミンショーでも取り上げられました第7ギョーザの店について深く正しくその歴史を追ってみようと思い調査いたしました。
第7ギョーザの店は8番らーめんやステーキ専門店「ひよこ」と肩を並べて創業50年を越えた非常に歴史のあるお店の一つです。(第7ギョーザの店は2015年で創業50周年) 昭和20〜30年台の戦後の混乱のときに様々な飲食店が闇市などで屋台というスタイルで生まれ、そのまま市民の生活に根付き今なお愛され続けているというものが多いのではないでしょうか? この第7ギョーザの店もその戦後の混乱にルーツのあるお店の一つです。
みなさんも気軽に足を運んでいるであろうこの第7ギョーザの店ですが、調べれば調べるほど金沢のギョーザのルーツを知ることとなり、50年以上もの間、金沢のギョーザを支えた人たちの愛に触れ、これからも受け継いでいく人たちの愛、それが尊い金沢の大切な大切な物語であるということに気付かされました。変なマガジンに毒される前に
金沢で育った
本マガジンの編集長が
責任を持ってこの大切な物語を皆様にお伝えできればと思います。
金沢のギョーザの全体を知る前に
金沢のギョーザ物語は非常に複雑だ。まずは基礎知識としてある程度の情報をまとめておいた。
金沢ギョーザ系図
たくさんの店舗が登場してくるのでこの系図を片手にすると非常に分かりやすくなります。この記事では
金沢ギョーザマップ
今まで営業していたギョーザの店をすべてまとめたものです。現在営業しているもの、していないもの、移転前のものすべて含まれています。
第二ギョーザの店 (金沢市並木町)
第三ギョーザの店 (白山市美川神幸)
第五ギョーザの店 (金沢市広坂:旧店舗)
★ 第五ギョーザの店 (金沢市芳斉)
★ 第六ギョーザの店 (金沢市神田)
第7ギョーザの店 (金沢市小立野:旧店舗)
★ 第7ギョーザの店 (金沢市杜の里)
第七・八ギョーザの店 (金沢市小立野)
ギョーザ屋 (金沢市野町)
ギョーザの店橋場店 (金沢市橋場)
ギョーザの店桜橋店 (金沢市中川除町)
ギョーザの店中村町 (金沢市中村町)
ギョーザの店泉本店 (金沢市泉本町)
★のついたものは現在営業しているもの
登場人物
金沢ギョーザの始まりとなる柏野家についてです。
・ 母 柏野 辰子 (旧姓 原, 九州の久留米出身) = ギョーザの店
・ 長女 柏野 ふみ = 第二ギョーザの店・第五ギョーザの店・第7ギョーザの店
・ 次女 柏野 幸子(よしこ) = 第二ギョーザの店・第五ギョーザの店・ギョーザの店橋場町店
・ 次男 柏野 吉成 = 第二ギョーザの店・第五ギョーザの店・ギョーザ屋
「ギョーザの店」時代
ギョーザを満州から金沢へ
ギョーザの物語は戦後間もないころ昭和20〜30年台から始まる。ギョーザ物語のはじまりは柏野 幸一(かしわのこういち)さん。
彼は金沢の鹿鳴館とも呼ばれていた金谷館(かなやかん) のご出身というから驚きだ。
ご存知でない方もいらっしゃるかもしれないが、この金谷館というのはもともとは前田家のご隠居場であって、明治維新後は金谷殿、金谷館という名前となり、金沢の鹿鳴館として財界人経済人文化人には馴染みの場所であった。
あの竹久夢二も1917年(大正6年)に「夢二抒情小品展覧会」をこの金谷館で開催しているから驚きだ。柏野幸一はまさにこの金谷館のご出身であったのだ。
色々と取材をしていくと柏野幸一さんがかなりのお坊ちゃまだったということが分かってきたのも面白い。昭和の初期にハンチングハットをかぶって軽快に自転車で登場するというようなハイカラなおっちゃんだったようだ。金沢の餃子がギョーザとしてカタカナで表記されているのもきっとこの幸一さんのハイカラな、粋な気持ちが反映したものなのではないかと思っている。
柏野幸一さんが満州へ従軍している際に出会ったのが、後に金沢ギョーザを大きく支えることになる柏野辰子さん(旧姓 原)である(辰子さんは九州の久留米出身)。この2人が満州にいたときに満州の人にギョーザの作り方を教えてもらったという。
戦争が終わり満州から柏野幸一さんが満州で出会った辰子さんを金沢へ呼び寄せた。柏野幸一さんは金谷のご出身ということで裕福な家庭であったことも呼び寄せることができた原因だったのだろう。
ここで重要なのは、幸一さんや辰子さんが満州で覚えたギョーザというものが金沢に流れてきたのだろうと考えられるということだ。
そもそも、餃子の歴史をたどると戦後以降のもの、昭和以降のものであると言われている。比較的新しいものなのだ。餃子といえば宇都宮。その発祥も宇都宮ではないかという説が有力となっているのは、満州などへ派遣されていた師団本部が宇都宮にあり、作り方を教えたからではないか?と言われているためである。
しかし、実際のところは満州へ兵隊へ行っていた人たちが満州の人に教わり日本の各地に伝わってきているというのが実際なのかもしれない。太平洋戦争のときの金沢では陸軍第九師団司令部が編成され金沢城の中に監督部があり、1940年(昭和15年)からは満州に衛戍(エイジュ 駐屯ともいう)していた。調査はしていないが柏野幸一さんはこの陸軍第九師団司令部の一員として満州にいたのかもしれない。
餃子について色々と調べてみると例えば福島県の名物 円盤餃子も昭和28年に満州から引き上げてきた菅野かつゑさんが餃子を伝えたことに始まると言われているから満州から帰ってきた人が餃子を伝え広まったというのが他の地域にもあったようだ。
「ギョーザの店」をオープン(第一ギョーザの店)
戦後に柏野幸一さんが辰子さんとともに金沢で営業を始めたのが「ギョーザの店」である。初代なので”第”はつけないのだろうけれども、いわゆる「第一ギョーザの店」ということになるのである。場所は尾山神社から近江町市場に向かった周辺。現在の金沢市西町周辺である。
この西町周辺で営業したというのは、柏野幸一さんの出身が西町にあった名家である「金谷館」であったということだからかもしれない。単純にその周辺で営業を始めたというのには想像に固くはない。そのスタイルは戦後では多かった屋台での営業だった。というのは戦後間もないころは物資なども不足しており闇市などが開かれ、屋台で営業するお店がほとんどだったからだ。
その屋台で営業を始めたギョーザの店では焼き鳥なども販売していたと言うから興味深い。当時はギョーザというハイカラなものの認知度が薄く、ギョーザを売るためにはハードルが高かったのかもしれない。しかし、金沢というところは新しいもの好きという気質もあるのかもしれない。結局のところギョーザは徐々に受け入れられるようになり、少しずつ繁盛してきたという。
・ 柏野 幸一さん (金谷館出身)
・ 柏野 辰子さん(旧姓 原) (九州の久留米出身)
・ 満州でギョーザを知る柏野幸一さん、柏野辰子さんが金沢に伝え広める
・ 金沢市西町周辺で屋台にて営業を始める
※ 一部ネット記事ではギョーザの店が柏野 辰子さんが営業していて店舗があったという話もありますが、当時は原辰子の名前で店舗での営業は行っておりません。屋台での営業を行っていました。
「第二ギョーザの店」時代
昭和30年代になり屋台で営業していた「ギョーザの店」はその営業を続けたまま、並木町(浅野川沿い)に「第二ギョーザの店」として店舗としてオープンする。衛生面でもあまり好ましいものではなかったから移転したのではないかともいわれているものの、「ギョーザの店」と「第二ギョーザの店」は並行して営業していた。
屋台で営業していた第一ギョーザの店がどのくらいの間営業していたかという問題であるが、終戦の昭和20年過ぎから営業を始めたとして「第二ギョーザの店」が地図に現れるのがおよそ昭和30年代後半であるということを考えると長くて10年ほど営業していたのだろう。
新しくオープンした「第二ギョーザの店」は辰子さん、長女 柏野ふみさん、次女 柏野幸子さんらとともに営業する。
お店は辰子さんが仕切って営業していたのだろう。当時の金沢市住宅詳細地図には原(柏野辰子さんの旧姓)の名前が掲載されており、店舗の写真も北陸放送の番組内で放送されていたようで店舗の外観も写真で残されている。
現在、みなさんが知る第7・第六ギョーザの店はこの「第二ギョーザの店」がルーツとなっている。と言うのは第二ギョーザの店に修行に来ていたのが現在の「第六ギョーザの店」の上野 善正さん、第7ギョーザの元雄 久直さんであるからだ。そして第二ギョーザで修行をしていた柏野辰子さんの妹も「第三ギョーザの店」として美川にオープンするのだ。
「第三ギョーザの店」の場所の謎
どこをどう調べても第三ギョーザの店は美川にあったという話だけがでてきて、なかなかその場所がわからなかったのですがその詳細が分かってきました。
話によると柏野辰子さんの妹が美川にお嫁に行き、「第三ギョーザの店」をオープンする。妹の旦那さんが寿司職人だったということもあって寿司屋「蛇の目寿司」に変更する。その寿司屋が美川の神幸町にあったということが分かり実際に探してきました。昭和54年時点では「蛇の目寿司」として美川に存在していた。
現場へ行ってみるとそこは民家となっていた。かつてはここに第三ギョーザの店があり、その後、蛇の目寿司として営業していたとのことだ。
話によると第三ギョーザの店は2〜3年営業していたというが、その名前はどの資料にも見つけることができなかったが、蛇の目寿司として寿司屋として営業したときの名前を確認できたのでここに紹介しておきたい。
※ 一部ネット記事では金沢が誇る大樋長左衛門邸が「第三ギョーザの店」であったかのような記事がありますが 「第三ギョーザの店」は美川に2〜3年のみ存在していました。
「第四ギョーザの店」不在の謎と第7が数字の理由
ご存じの方も多いだろうが、実は第四ギョーザは存在しない。 第四ギョーザは単純に縁起が悪いからということで第四ギョーザはお店の名前として採用されていない。 次に登場してくるが、第二ギョーザの店の支店は第四を飛ばして第五ギョーザの店となる。第六、第7もそれに続くことになる。
第7ギョーザの7はなぜ数字か。それは「七」が「亡」の漢字に見えることがあり縁起が悪いからというためだ。それ以外にも第七の暖簾分けで問題があったからと推測ができるが後ほど触れることにする。
・「第二ギョーザの店」は第三,第六,第7ギョーザの店のルーツとなっている
・「第三ギョーザの店」は柏野辰子さんの妹が美川神幸町でオープン、その後蛇の目寿司になる
・「第六ギョーザの店」金沢市神田に上野 善正さんが独立
・「第7ギョーザの店」金沢市石引に元雄 久直さんが独立
・「第四ギョーザの店」は縁起が悪いので不採用
・第七の七は亡に似ているため縁起が悪いために数字の7を利用
「第五ギョーザの店」(広坂)時代とお嫁入り
「第二ギョーザの店」は人気店だったようで、この人気ならということで「第五ギョーザの店」をオープンさせることになる。この第五ギョーザの店の場所は広坂通りに面した、四高の向かい側。今は区画整理の後で姿形は何も残ってはいないが金沢市明細地図にはしっかりとその店舗の跡が残されていた。
この「第五ギョーザの店」では長女 柏野ふみさん、次女 柏野幸子が担当、「第二ギョーザの店」と「第五ギョーザの店」が並行して営業していた。金沢市明細住宅地図 昭和40年には両店舗が同じ年に掲載されていたので間違いはないだろう。
そして、「第二ギョーザの店」では辰子さんが営業していたが、辰子さんが一人で「第二ギョーザの店」を営業するようになり第二ギョーザの店は閉店。「ギョーザの店」のDNAは広坂の「第五ギョーザの店」へと受け継がれることになる。
柏野ふみさん第7ギョーザへお嫁入り
第五ギョーザの店を営業していた「柏野ふみ」さんは「第7ギョーザの店」をオープンした元雄 久直さんのところへお嫁入りする。
現在の第7ギョーザの店は杜の里にあるが、以前は第7ギョーザの店は小立野店として住所は石引にあった。これが第7ギョーザの始まりの店舗である。現在はみなさんの知る杜の里にホテルのような大きな店舗となっているが、その前は小立野の広見の前辺りに存在した。
このアパートのセジュール・エムのエムは元雄(MOTOO)さんのイニシャルのエムであるということも重要だ。
柏野幸子さんのお嫁入りとギョーザの店橋場店オープン
次女 柏野幸子さんもお嫁に行き、その後は同じようにギョーザの店をオープンするのであるが、それが「ギョーザの店 橋場店」である。この「ギョーザの店 橋場店」は現在、金沢が誇る大樋長左衛門宅のお隣の旧不破病院の駐車場周辺にあった。今は駐車場となっていて跡は何も残ってはいない。
柏野ふみさんの嫁ぎ先である元雄家は第7としてギョーザの店の暖簾分けとしての数字を付けるわけだが、柏野幸子さんの嫁ぎ先は橋場町店としてオープンし、“第” を付けることはなかった。タイミングなど様々な要因もあったのだろう。執筆している私としてはこの橋場店は事実上の第八ギョーザの店としてオープンするべきだったと思っている。
存在した「第八ギョーザの店」の謎から分かる数字の本当の意味
「第五ギョーザの店」に修行へ来ていた荒木さんが新店舗として「第七ギョーザの店」 (漢数字の七であることに注目して欲しい) としてオープンさせるが、それよりも随分と先に認められた上で独立を決めていた元雄さんが7番目であるということだったのに、多少のすれ違いがあったようだ。
そのすれ違いから一時的にであるが、地図上には”第七ギョーザの店”と”第7ギョーザの店”の2店舗が近い石引・小立野に掲載されることになる。その後は “第七ギョーザの店”(漢数字の方) は第八ギョーザと名前を改めるがその暖簾分けである数字を付けることに対して幸一さんや辰子さんの反対もあったようで短い間に閉店することになる。第7も第七も同じ小立野ということだからなおさらややこしかったのだろう。
ここで分かるのは、薄々みなさんも分かっているだろうが、この第〜という数字は柏野幸一さん、辰子さんが認めた暖簾分けの順番であるということが明確になるということだ。この第七・八ギョーザの店の件でその意味が明確になると私は思っている。
そして、面白いのは「第二ギョーザの店」のときに”第二”と付けるのがダサいという風潮だったという話もあったようだ。後に暖簾分けの意味合いとして”第〜”がつくことになるとは思ってもいなかっただろうし、第7ギョーザが全国放送のテレビでも取り上げられここまで名前が出ることになるなんて思ってもいないだろう。
「ギョーザの店桜橋店」
他にも「第五ギョーザの店」に修行に来ていた「はた」さんという方が「ギョーザの店 桜橋店」としてオープンしていた。現在は住居となっていた。この住宅地にもギョーザの店があったのだと思うと感慨深い。地図ではなぜか 第12ギョーザの店? と表記されているが刊行社の間違いだろう。第12ギョーザが存在したというような事実はない。
柏野 吉成さんと妻すみ子さんの「野町のギョーザ屋」
広坂にあった「第五ギョーザの店」時代に柏野 吉成さんと妻(すみ子)は独立するような形で一時的に野町に「ギョーザ屋」というお店をオープン。
その後、野町の「ギョーザ屋」は柏野吉成さんの妻(すみ子)さんの弟さんに任せる形で中村町に移転する。この中村町の店が「ギョーザの店中村町店」となる。(※すみ子さんの旧姓は宮崎で弟さんも宮崎さん。地図上ではギョーザの店中村町は宮崎さんのお名前になっている。)
画像) 「ギョーザの店中村町」は中村町小学校に隣接したところにあった。現在は民家となっている。
・「第五ギョーザの店」は「第二ギョーザの店」の新店舗
・柏野幸一さんの長女 柏野ふみさんは「第7ギョーザの店」の元雄さんへお嫁入り
・柏野幸一さんの次女 柏野幸子さんはお嫁に行き「ギョーザの店 橋場町」をオープン
・「第七ギョーザの店」は「第八ギョーザの店」に名前を変更するが反対もあり早くに閉店
・「ギョーザの店 桜橋店」は はたさん が独立して営業していた
・「第五ギョーザの店」から「ギョーザ屋」(野町)として営業を始めるがその後「ギョーザの店 中村町」として営業
現在の「ギョーザの店」へ
「第五ギョーザの店」芳斉へ移転
ギョーザの店を受け継ぐ「第五ギョーザの店」広坂店は広坂通りの区画整理によって場所を移転することになる。移転後、芳斉での「第五ギョーザの店」の営業は柏野幸一さんの次男である柏野 吉成さんと妻すみ子さんが営業することとなるのである。
この辺がややこしいのであるが、おそらくであるが
「ギョーザ屋」(野町)を柏野すみ子さんの弟(宮崎さん(すみ子さんの旧姓は宮崎)) に任せた上で野町の店舗から中村町に移転させる。その後に野町からギョーザの店の本丸である「第五ギョーザの店」に移り営業するということになったのではないかと思われる。(時間関係を再取材する必要があります。)
現在は妻すみ子さんとお子さんが第五ギョーザから「ギョーザの店」として名前を変えて芳斉で営業している。原点回帰とも言える店名の変更だから面白い。もちろん現在も営業している。
・「第五ギョーザの店」は「ギョーザの店」として芳斉で営業中
・正統なギョーザの店として受け継がれているのがこの「ギョーザの店」である
柏野幸一・辰子さんが営業を始めた「ギョーザの店」は「第二ギョーザの店」となり、そこで修行していた上野さん、元雄さんが独立して、第六、第7を開業、第二ギョーザは繁盛していて支店のような流れで「第五ギョーザの店(広坂店)」とオープン。その後、「第五ギョーザの店」は芳斉に移転して現在に至る。
現在でも3店舗のお店が営業しているのでその店舗をちょっとだけ紹介したい。
現在も営業している「ギョーザの店」
そして、現在営業しているギョーザの店は
「第六ギョーザの店」
「第7ギョーザの店」
の3店舗のみだ。それぞれに足を運んできた。
「ギョーザの店」(第五ギョーザの店)
この「ギョーザの店」は「第五ギョーザ」として柏野幸一さん、柏野辰子さんから始まるギョーザ物語を受け継いでいるお店そのものなのだ。お店を営業しているみなさんはもちろん柏野さんである。
所在地: 〒920-0862 石川県金沢市芳斉1丁目13−24
電話: 076-263-6219
[ 食べログ ]
「第六ギョーザの店」
第二ギョーザの店で働いていた上野さんが営業しているのが第六ギョーザの店。ギョーザ、シソギョーザがギョーザの店の味を受け継ぐギョーザだ。
所在地: 〒921-8027 石川県金沢市神田1丁目2−20
電話: 076-244-6136
[ 食べログ ]
「第7ギョーザの店」(杜の里店)
ケンミンショーでも紹介され、みなさんもご存知であろうこの第7ギョーザの店。ホワイト餃子が有名であるが、もともとは焼きギョーザが本当の金沢ギョーザの味。後に触れるが、元雄さんが千葉県野田愛宕にあるホワイト餃子の店に足を運びお客様を待たせないようにという気持ちからホワイト餃子を導入する。このストーリーも後ほどご紹介する。
所在地: 〒920-1165 石川県金沢市もりの里1丁目259
電話: 076-261-0825
[ 食べログ ]
かつて存在したすべての「ギョーザの店」一覧
意外とこの一覧を探している方も多いのではないでしょうか? 本マガジンはかなり時間をかけて調査しました。 本マガジンの調べによると昭和50〜55年にギョーザの店は店舗数として最全盛期を迎える。ここまでしっかりと読んでいればきっとそのすべての店舗の意味が理解できるはずです。現在も営業しているお店も含まれています。
「第二ギョーザの店」 (金沢市並木町)
金沢市並木町に存在していた。現在は魚常の一部として利用されている。柏野幸一、柏野辰子、柏野ふみ、柏野幸子、柏野 吉成 そして、第六ギョーザ店の上野さん、第7ギョーザの店の元雄さんがここで金沢ギョーザの原点を築いた歴史的な場所と言える。現在の第7ギョーザの直接的なルーツとも言えるのがこの第二ギョーザだ。
「第三ギョーザの店」 (白山市美川神幸)
ギョーザの店を立ち上げた柏の辰子さんの妹が美川にお嫁に行き開店したのがこの第三ギョーザの店。数年間営業した後に「蛇の目寿司」として長年営業していた。石川県白山市美川神幸町で営業していたが、現在は民家となっている。
「第五ギョーザの店 広坂店」 (金沢市広坂)
ギョーザの店のDNAを受け継ぐのがこの第五ギョーザの店広坂店。第二ギョーザの店が繁盛したことで支店という形で広坂に出店したのがこの第五ギョーザの店(広坂店)である。この店では柏野辰子、柏野ふみ、柏野幸子、柏野吉成、荒木さん、はたさんなどが働いていた。柏野家からお嫁に行き数多くの店舗もここから広がっていった。
広坂にあった第五ギョーザの店は広坂の区画整理で移転することになる。その移転先が金沢市芳斉町で「第五ギョーザの店」として営業していたが、近年は原点回帰とも言えるように「ギョーザの店」として営業している。
「第六ギョーザの店」 (金沢市神田)
「第二ギョーザの店」で修行をしていた上野 善正さんがオープンしたのが「第六ギョーザの店」 現在も金沢市神田で営業している。後ほど、現在食べることができるギョーザの店というところで紹介したい。
「第7ギョーザの店 小立野店」 (金沢市石引)
「第7ギョーザの店」はもともと金沢市石引にあった。現在はセジュール・エム(エムは元雄のエム)となっている。第7ギョーザの店は柏野幸一・辰子さんのお子さんである柏野ふみさんが第二ギョーザの店で働いていた元雄さんのところへ嫁入りするとともに、第7ギョーザの店としてギョーザの店のDNAを受け継いでいる。
「ギョーザの店 橋場町店」 (金沢市橋場町)
「ギョーザの店 橋場町店」は現在大樋長左衛門宅のとなり、旧不破医院の駐車場周辺に存在していた。柏野幸一・辰子さんのお子さんである柏野幸子さん(今井さん)がお嫁入りした後にオープンしたのがこの橋場町店。事実上の第八ギョーザの店である。
「ギョーザの店 桜橋店」 (金沢市中川除町)
「ギョーザの店 桜橋店」は第五ギョーザの店(広坂店)で働いていた「たはさん」が独立して営業していた。現在は民家となっていてまったくそのあとは残っていなかった。
「第七・第八ギョーザの店」 (金沢市小立野)
「第七・第八ギョーザの店」(小立野)は第五ギョーザの店で働いていた荒木さんがオープンしたお店だ。いろいろと行き違いなどもあったみたいでお店の名前が七になったり八になったりとしたが、あまり公にはなっていないのは第〜を付けるということに対して柏野家の反対もあったためだ。「ギョーザの店 小立野店」としても第7ギョーザの店(小立野)としてかぶってしまうのでなおさらややこしい。
「ギョーザ屋」 (金沢市野町)
「第五ギョーザの店 広坂店」のときに柏野吉成さんと妻すみこさんとが独立するような形で開店したのがこの「ギョーザの店」 その後は本家「第五ギョーザの店」を受け継ぐこととなる。また柏野ふみ子さんの弟さんにこの店を譲るような形で「ギョーザの店 中村町店」をオープンした。
「ギョーザの店 中村町店」 (金沢市中村町)
柏野幸一・辰子さんのお子さんである柏野吉成さんの妻すみ子さんの弟さんが営業していたのがこの「ギョーザの店 中村店」 もともとは野町にあった「ギョーザ屋」から移転してきた。
「ギョーザの店 泉本町」 (金沢市泉本町)
ここまでで一切触れていないのがこの「ギョーザの店 泉本町店」 このお店は柏野辰子さんのご兄弟 妹が営業していたそうです。柏野辰子さんは九州は久留米の出身なのだが、ご兄弟はなんと12人もいた。その12人の長女だったのがこの辰子さんだ。
第7ギョーザの店とホワイト餃子の謎
このホワイト餃子は千葉県野田市の愛宕にある「ホワイト餃子」が元祖でそちらの餃子であるのです。金沢のルーツのギョーザではないのです。
ホワイト餃子と言うのはもともとその歴史の話をすると、ホワイト餃子の創業者である水谷信一さんが満州で白(パク)さんという中国人から餃子の作り方を教わって日本で餃子を提供したことに由来するとのこと。白(パイ)からホワイト餃子という名前につながる。
第二ギョーザの店で働いていた元雄さんが独立して第7ギョーザになるわけだが、第7ギョーザの店が小立野にあったときにギョーザの注文が入ったときからギョーザを作り始めていたことから時間が掛かるということで短時間で提供できる新しいギョーザが必要ということで野田のホワイト餃子の導入を決めたのだ。
しかし、ホワイト餃子の作り方を千葉県まで何度も習いに行ったとしても、そう簡単にホワイト餃子を提供することができたわけではない。
ホワイト餃子を提供するまでは第7ギョーザでは数多くのメニューを提供していた。チャンポン麺やカツ丼など中華料理屋のようなメニューを提供していたのだが、このホワイト餃子を導入するということになると千葉県野田のホワイト餃子のルールに準じる必要があった。そのルールは基本餃子の提供のみの餃子専門店化ということだったようだ。
実際に千葉県野田のホワイト餃子へ行ってみたところ、メニューはあまり第7ギョーザと違いがなかったからそのルールの厳しさを実感した。
千葉県野田のホワイト餃子本店。ここがホワイト餃子の本店。ホワイト餃子は全国に27店舗存在する(本店を含む) 第7ギョーザはその一つ。
↑ ホワイト餃子本店の店舗内は食堂のようにテーブルと机をおいたシンプルなもの。
↑ ホワイト餃子本店で提供される餃子は第7ギョーザと比べて多少多く焼かれている。第7ギョーザのように唐辛子たっぷりのラー油などは提供されていない。
↑ 驚きなのはそのメニュー。第7ギョーザの店と変わらないのではないかという感じ。 ホワイト餃子、漬物、ビール、お茶。その程度のメニューだ。
要するにここでいいたいのは第7ギョーザの店で提供されており、ホワイト餃子で提供されていないもの。それがまさに金沢の餃子である焼きギョーザです。柏野幸一・辰子からはじまるギョーザそのものが第7ギョーザの焼きギョーザであるということがとても大切なのです。
このホワイト餃子で感じるのは柏野幸一・辰子さんも同じように満州で餃子の作り方を学んできて提供したものが金沢ギョーザであり、ホワイト餃子も水谷信一さんが満州から教わってきたものであるということに注目したい。
戦中に満州から入ってきた餃子文化。ホワイト餃子は満州から千葉県に、金沢ギョーザは満州から金沢に。そして、第7ギョーザの店で金沢ギョーザと焼き餃子の2つが交わるのだ。
是非とも第7ギョーザの店では柏野幸一・辰子が金沢に伝えた「焼き餃子」、水谷信一が千葉に伝え金沢へ来た「ホワイト餃子」 この2つを食べて文化の交差点である第7ギョーザと金沢ギョーザの歴史を味わうことだ。
金沢にも宇都宮や静岡などに負けることのない立派な餃子文化が生きているということを大切にしていきたい。そうだ。忘れていはいけない。金沢では餃子ではなくギョーザなのだ。それは餃子を満州から金沢に持ってきた金谷館出身の柏野幸一さんの”ハイカラ”なセンスが餃子ではなく「ギョーザ」に凝縮されているからだ。
さいごに
金沢のギョーザの歴史が少しでも理解できたでしょうか? あまりにも長い内容で途中で断念してしまったかもしれません。金沢におけるギョーザの始まりは何なのかわかりましたか?
時代の波にのみこまれ満州まで行くことになった、柏野幸一さん、そこで出会った原辰子さん。満州で教わったギョーザの作り方を金沢に伝えたのがその2人であり、その娘さんたち、息子さんたちが昭和の激動の中、金沢でギョーザの飲食店の営業のために毎日汗を流してきた。
第二ギョーザの果たした役割。第二ギョーザの店からは数多くの店舗を輩出した。今も続く第六ギョーザの店、第7ギョーザの店を。その後、支店という形でオープンする第五ギョーザの店(広坂店)の果たした役割。
そして、現在の第五ギョーザに続く。一時的には第7・第七ギョーザが乱立したこと。そして、第八ギョーザがあり、その他ご親戚の多くのギョーザの店が存在していたということなど様々な物語がギョーザの中にありました。
取材でお世話になった第7ギョーザの現社長である元雄有紀社長が教えてくれた。それは先代から託されていることがある、それは 1. 血筋を絶やさず次の代へ繋げること 2. 商いでは人を育てて伝えること であるという言葉でした。
ギョーザの店、第二〜とその数字は暖簾分けの意味をもたせながら今なおその血筋は絶やさず続いているということ。そして単に商いだけではない、その商いは人を育てるためにあるということだ。そのスタイルは企業の一面だけではない、家督を重んじる家業としてのいち面が大きい。まさにその数字が意味していることは家業と企業の顔を持っていることに他ならないだろう。
そして、文化的な面で第7ギョーザの店の果たす役割は大きい。もともとは餃子という1つの餃子文化が満州を経由して金沢・千葉の2つのルートから餃子の文化が日本へ入ってくる。その2つの文化が焼きギョーザ、ホワイト餃子として第7ギョーザで交わることになるのだ。
歴史を文化をかみして食べるギョーザはより美味しくなれば本望です。
取材協力
第7ギョーザの店会長 元雄 久直さん、第7ギョーザの店社長 元雄 有紀さん、第五ギョーザの店 柏野 すみ子さんとお子さん、ホワイト餃子の店 野田本店、エイブルコンピュータ 新田一也さん、石川県立図書館、金沢市立玉川図書館